孕石元成 - 父・孕石元泰と共に武田勝頼の家臣じゃった

孕石元成(高知市)

[ 高知県高知市筆山  ]


NHK大河「真田丸」関連として、「伝・武田勝頼の墓」も御紹介をしましたけんど、ちょっと調べただけでも有名人の先祖に土佐に入ってきた武田家旧臣達がおります。

特に有名なのは板垣退助(乾退助)の先祖は旧武田家家臣・板垣氏、馬場孤蝶と馬場辰猪兄弟の先祖は武田家の流れをくむ馬場美濃守信春。

そして今回は、武田勝頼旧臣じゃった孕石元泰と祖父・孕石元成の親子を。

因みには、前回の記事の野中兼山を失脚に追いやった孕石(頼母)元政の、曾祖父・孕石元泰と祖父・孕石元成になるがです。

孕石元政 - 土佐藩家老・野中兼山を生駒木工と画策し失脚させる 2016-11-04

まず、孕石(頼母)元政の祖父になる孕石元成。

写真の墓石の文字は見えませんけんど、戒名の下に「孕石小右衛門慰元成」とある。

孕石元成(はらみいし もとしげ)

永禄6年(1563年) - 寛永9年8月3日(1632年9月16日)
孕石元泰の嫡子として誕生。

はじめ父・元泰と共に今川氏に仕え、今川氏の滅亡後は甲斐武田氏に仕えた。
武田氏滅亡ののちは浪人となった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐において、同じく武田家旧臣であり浪人であった乾正信らとともに豊臣氏方として奮戦し、同年、その功により山内一豊に200石で召抱えられ、御使母衣(従六位相当)の格式となった。

関ヶ原の戦い後、山内一豊が土佐国に転封する際に450石を与えられ、更に元和5年(1619年)には藩主・山内忠義より忠豊傅役を命ぜられ、200石を加増された。

寛永9年(1632年)死去。

家督は養子である内蔵助正元(木部籐兵衛の次男で土佐藩家老・孕石元政の父)が継いだ。

【 参考・引用 】  孕石元成 - Wikipedia


孕石元成(高知市)

こちらは孕石(頼母)元政の曾祖父・孕石元泰の墓碑で、「前和泉守孕石元奏君碑」とある。

孕石元泰(はらみいし もとやす)

生年不詳 - 天正9年(1581年)3月23日)
今川氏、武田氏の家臣。
諱の「元」は今川義元の偏諱と思われる。

今川氏の家臣・孕石光尚の子として誕生。

はじめ今川氏に仕え、朝比奈信置や岡部元信と並ぶ駿河先方衆の1人であったが、永禄11年(1568年)の武田信玄の駿河侵攻によって武田氏の家臣となった。
天正9年(1581年)3月22日、三河国の徳川氏の侵攻により高天神城は陥落すると捕らえられ、翌3月23日に切腹させられた。

【 参考・引用 】  孕石元泰 - Wikipedia


と、前述べしたように孕石元泰と孕石元成親子は、武田四郎勝頼の家臣じゃったがです。

伝承の武田勝頼=大崎玄蕃が亡くなったのは慶長14(1609)年。

山内一豊の土佐入国は慶長6年(1601)です。

孕石元成が、武田家滅亡後山内氏の家臣になって土佐に来た頃は、まだ武田勝頼とされる大崎玄蕃は生存しちょった事になるがです。

後日談にでも、元・主君だったかも知れん大崎玄蕃の噂を耳にしたかも知れませんねー・・・・・。


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment