伝・武田勝頼墓 1 - 天目山の一戦に敗れ土佐に逃れて来たと伝承あり

武田神社(香美市土佐山田町大法寺)

[ 高知県香美市土佐山田町大法寺  ]


今回は、NHK大河『真田丸』の第一話の登場じゃったけんど、武田勝頼を御紹介します。

「えっ!土佐に関係があるがかよ?」と思われるかもしれんけんど、史実とされちょる武田勝頼は織田信長との長篠の戦いに敗れ、最後は天目山に逃れる途中行く手を塞がれ自刃したと言われちょりますが、この時、自刃したのは勝頼の影武者で土佐に逃れて来たと言う伝承が残っちょるがです。

最初に、土佐の武田勝頼伝承を目にしたのは随分前の事じゃけんど、昭和23年に土佐の伝説・奇談等をまとめた『土佐伝説全集』ながでして、NHK大河『真田丸』を見て思い出し、某月探しに行った次第ながです。

「大崎玄蕃實は武田勝頼といふ」

前略・・・・・
武田勝頼は天目山の一戦に大敗し 、近臣と共に自殺せんとした處(ところ)、この時高坂某といふ武将が之を諌め自ら武田勝頼と稱(しょう)して敵中に踊り入りて華々しく身代り戦死を遂げた。
勝頼はそこで側近の従者を召し連れ、、甲斐の国を逃れて諸所方々を潜行して、秘かに武運の回復を計りましたが、運未だ至らず事志と違ひ放浪漂泊すること数年にして遂に土佐の国に来り、山田城主山田丹波守を頼って、この大崎の地に移住し自ら大崎玄蕃と稱(しょう)し、大に兵を養い遂に吾川高岡の北部を領有して大崎城主となった。
山田丹波守は玄蕃の名声日に高くその勢力侮(あなど)るべからざるを見て、之を妬(ねた)むと同時に後日の災難を怖れて遂に殺害せんと企て、ある日彼を新改村甫木山の猪狩に誘うて、矢立てずの杜といふ所で、臣下に命じて銃殺したと云ひ伝へます。
現に、大法寺峯といふ所に武田勝頼墓といふのが遺て居る。
後略・・・・・

【 参考・引用 】 
『土佐伝説全集』 松山秀美、寺石正路・著 昭和23年(1948)


因みに、松山秀美・寺石正路氏共に「土佐史談会」会長を務めた人で、寺石正路先は土佐郷土史家として知られちょります。

そんで、土佐に於ける武田勝頼伝承を調べたら、ようような書物に記録がありました。

『土佐の伝説 2巻』 桂井和雄・著 (1954)
『土佐山田風土記』 橋詰延寿・著 高知県立山田高等学校生徒会 (1966)
『皆山集 第6巻』 高知県立図書館 (1973)
『土佐山田町史』 土佐山田町史編纂委員会/編集 (1979)
『土佐のごりやくさん』 市原麟一郎・著 (1994)

他にもあるようです。


まず、土佐山田町にあると言う「武田勝頼墓」を探すべく、調べたけんど詳細な場所が判らず、土佐山田町大法寺地区の地図(と言うても広いがですが・・・・・)に何か手掛かりは無いかとニラメッコしよったら、「武田神社」の文字が目に入ったがです。

取りあえず、散策がてら行ってみようと思い自転車を走らせて行ってみたのが、記事トップの写真「武田神社」ながです。

行って見ると鳥居の奥に祠があるだけで、境内にゃ何の由緒書のような物も見当たらず、後日、土佐の神社をまとめた『鎮守の森は今』と言う本でチェックしても御祭神等は不明とあった。

周囲を確認すると、祠左に下記のような石を積み重ねたお墓が三基あったがです。

武田神社(香美市土佐山田町大法寺)

そして、その奥にゃ、立派な石積みのお墓が一基あったがです。

武田神社(香美市土佐山田町大法寺)

何方のお墓かは判らんけんど、身分の高い人物じゃないかとは思われます・・・・・。

そして、神社のある左の丘にゃ「武田菱」の家紋の入った「武田姓」のお墓もあったがですき、武田勝頼との関係は不明じゃけんど、武田氏の先祖を祀る神社のようです。

武田神社から来た道を引き返していたら、近くに農作業をしゆう方が居られたので、武田神社と武田勝頼の墓について何か御存じないかと聞いてみた所、「武田神社はこの近くの武田さんと言う方がお祀りしゆうけんど、武田勝頼との関係は判らん。ただ、武田勝頼の墓にゃ御参りに行きゆうようじゃけんど。」と・・・・・。

そんで肝心の武田勝頼の墓の場所を御存じないかと聞いた所、「そりゃー、此処も大法寺じゃけんど、この北の山の上ぜよ。自転車で行くがかよ?。そりゃー行けんこたーないけんど・・・・・」と。

兎に角、持っちょった地図で、大まかな場所を御教えいただいた次第ながでした。

んー、確かに遠いし、とっと山の上。

それに、時刻はすでに13時前。

今から自転車で山を登って、へたしたら帰りは遅くなるかも知れんとと思うたけんど、「ここまで来ちゅうき、行くしかないろー」と思い、行ける所まで行って見ようと、進路を山道に取ったがです。

まずは、教えていただいた目標の標高約200mにあるJR土讃線「新改駅」を目指して、新改発電所を過ぎ休場ダム湖を右に上って行ったがですが、途中から急勾配の坂道にギブアップ。

仕方なく、自転車を降り押して上ったけんど息はゼーゼー心臓はパクパク、その上、汗はダラダラ・・・・・。

何とか人気もない無人の新改駅に到着し、自転車を止め一休みした後、そこからは徒歩で山道を登る事にしたがです。

途中数か所にゃ「武田勝頼墓」と書いた標識があったものの、車一台がやっとの人気のない山道。

「この道で間違いないろーか」と少々不安になりながら(実際、途中一ヶ所、道を間違え5分程歩いた後、こりゃーおかしいと思い、間違えた分岐点まで引き返しちょります)、汗をかきながら登る事、地図上の平面距離で約3Km、所要時間約1時間少々、標高約320mの杉と竹林が鬱蒼とした斜面下に立派な墓石があったがです。

武田神社(香美市土佐山田町大法寺)

ここも「武田神社」と言う。

武田勝頼墓(香美市土佐山田町大法寺)

その「武田神社」の祠の左の墓石にゃ「武田四郎勝頼」と刻まれちょり、背後にゃ無数の五輪塔があった。

武田勝頼墓(香美市土佐山田町大法寺)

武田勝頼が頼ったと言う山田城主・山田丹波守は、土佐七守護・香宗我部氏に繋がるがです。

源清光の次男で甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主でもある武田信義の子・忠頼は、甲斐国山梨郡一条郷(山梨県甲府市)を領し、一条氏と名乗った。

粟津の戦いでは木曾義仲軍を撃破し追い詰めたり、平氏との屋島の合戦にも参加しちょるようですが、鎌倉に招かれた一条次郎忠頼は、酒宴の際に如何なる理由かは不明じゃけんど、源頼朝の命によって暗殺されたという。

一条次郎忠頼の死後、一族は離散し、家臣・中原秋家の後見を受け、一条秋通は中原と名を改め、建久4年(1193)土佐に来て、中原秋家は香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職に補任され住みついたという。

貞応2年(1223)香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職は中原秋家から秋通(一条秋通)譲られた。

秋通(一条秋通)は香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職となり、子孫はのちに香宗我部を称して、土佐の有力国人に成長していくことになる。

一方、秋通の前途をみとどけた中原秋家は、香美郡山田に移り、その子孫が戦国時代に勢力を有した山田氏になった。

しかし、山田氏の祖は大中臣(中原)秋家だというだけで、それを裏付ける史料があるわけではない。

事実、山田氏の中世における動向はまったく不明で、戦国以前にどのような状態にあったかを記す資料も乏しく、どのような発展を遂げてきたかも全く解らない。

【 参考・引用 】  武家家伝_山田氏


前述にあるように、武田氏子孫になる中原秋通(一条秋通)の子孫が香宗我部氏を称し家紋も「武田菱」ながでして、その後、香宗我部氏は、武田家、喜田家、中山家等の数家に分れて行ったようながです。

山田氏は、あくまでも武田氏子孫・中原秋通(一条秋通)の家臣の家系になる。

ただ、土佐の武田勝頼伝承の疑問に思うのは、

① 山田氏滅亡は天文12年(1543)23年(1554)、武田氏滅亡は天正10年(1582)とされ、武田勝頼が土佐に山田氏を頼って逃れて来た時にゃ、既に山田氏は滅んじょった事になる。

② 山田氏は、主家武田の家臣の家系に成るき、本来なら武田氏の子孫になる香宗我部氏を頼って土佐に来たと言うのなら、まだ判らんでも無い気がするけんどねー。

兎に角、香宗我部氏に繋がる武田家、喜田家、中山家等の誰かを頼ってやって来たという可能性は「ゼロではない」かも知れんと思うのは、伝承の類は全く根拠の無いところには生まんと思いますき、武田勝頼本人ではなくても一族郎党の誰かが逃れて来たとか、長い歴史の中でおヒレが付いて膨らみ、土佐の「武田勝頼伝承」の元に成ったのかも知れませんきねー。

兎に角、あくまでも「伝承の類とされる墓」ですき史跡にはなっちゃーせんのかも知れませんが、「伝承が残っちゅう」と言う事実だけは、ちゃんと後世にも伝えて行かんといかんねー。

真相は歴史の中に封印されちょりますが、土佐の「武田勝頼伝承」も、歴史のミステリーで浪漫です。


そうそう、結局この日の自転車の走行距離は往復で約60Km + 山道の徒歩約6Kmでした。

ただ、帰りは新改駅から須江までの約5Kmは、殆どペダルを踏む事なく一気に下り降りて来ました・・・・(爆)
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment