美正貫一郎 - 三春を賊軍の汚名と戦火から救った土佐藩断金隊隊長

美正貫一郎(高知市)

[ 高知県高知市平和町 ]


美正貫一郎(みしょう かんいちろう)は、天保15年(1844)に土佐藩医師・下村惇斎の二男とし高知城下南奉公人町(現・高知市上町)に生まれ、慶応2年(1866)同町の土佐藩士徒士格・美正家の養子となり同家を嗣いじょります

慶応4年(1868)1月、戊辰の役には土佐藩迅衝隊として参加し、伏見の合戦に参戦し、一番司令に任ぜられ、甲府城を無事に保護するや、「浪士掛探索役」を仰せ付けられる。

甲州では、旧武田家臣の子孫らが、旧・武田家臣の子孫である板垣退助の徳を慕って名乗り出るや、これを聚めて遊撃隊を組織し、江戸に転じると、部隊(総勢約150人)名を断金隊と名付けて、その隊長に任ぜられちょります。

慶応4年(1868)閏4月21日、日光今市で戦い、さらに北上し、奥羽列藩同盟に加っちょった三春藩を無血開城を成す。

当時、三春藩は藩論を二分しちょたがですが、三春藩の実力者である河野卯右衛門・河野広中(信次郎)らが密かに使者を仕立て官軍総督・板垣退助らと会い藩の帰順を申し出ており、美正貫一郎は三春藩への攻撃を阻止するように尽力した事で三春城の無血開城を成し、7月26日に三春藩は奥羽列藩同盟から離脱する事が出来、賊軍の汚名をきる事が防げた。

そのため、三春は戦火からも避けられて多くの人命が救われたと言う。

美正貫一郎の努力によって救われた三春藩は彼の功を慕い滞留を求めたが、これを固辞して二本松城攻略のため本宮)へ向かったと言う。

しかし、慶応4年(1868)7月27日、途中の阿武隈川途川の際に、敵に狙撃され馬から水中に落ち、兵士達が助けようとしたけんど急流に押し流され見失ったと言う。

その後も、彼の遺体は発見されず、三春の人達は岸辺に「美正明神」と言う祠を建てて祀り、三春城内に彼の徳を讃えて「美正貫一郎頌徳碑」を建て、更に昭和59年(1984)には彼の功績を偲び「美正貫一郎建臣之碑」も建立されちょるそうです。

男気があり智にして鋭敏な人であったという。

享年25歳。

土佐のこの墓碑の撰文は、板垣退助です。

板垣退助邸跡 2009-06-18
板垣退助墓 - 、初代・乾正信から続く墓所に眠る 2011-10-09

【 参考・引用 】  
『高知県人名事典』 高知新聞社
『土佐の墓』 山本泰三・著
美正貫一郎 - Wikipedia




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment