野老山吾吉郎顕彰碑 - 元治元年祇園祭の宵々山に池田屋騒動起こる

野老山吾吉郎顕彰碑(芸西村)

[ 高知県安芸郡芸西村和食  ]


芸西村役場の北東1Km程の所に憩ヶ丘運動公園がありますが、その直ぐ南に毘沙門の森と呼ばれる、こんもりとした森があるがですが、ここに野老山(ところやま)一族の墓所があり、その奥の方に池田屋事件で負傷し自刃した野老山吾吉郎の顕彰碑が建っちょります。

以前に、御紹介しちょりますが

野老山吾吉郎の先祖野老山氏(山野辺氏)は伊賀国の人で、6世紀後半に蘇我氏の傍流(後の長宗我部氏)が四国に赴任するのに従い奈良を離れ、以後、長宗我部氏に代々仕えた。
四国平定の際に、功績として野老山一帯(高知県高岡郡)の所領を賜った事が野老山姓の由来であるとされる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が西軍に与し、改易となった際に郷士となった。

吾吉郎は弘化3年(1846年)11月28日、高知城下・山野辺寿満平の次男として生まれる。
当初は山野辺姓であったが、藩より新規召し出しを受けた際に、和食村野老山氏の分家であった事から旧姓「野老山」を称する。武芸に秀で、早くから勤王論を考えていた一人であった。
洒落者でもあり、長く設えた赤鞘の大小を愛用していた。なお、坂本龍馬とも同郷(吾吉郎が10歳年下)で旧知の間柄であった。

文久元年(1861年)、武市半平太が土佐勤王党の結成に際し土佐各地で同志を募ると、これに共感し土佐勤王党に加わった。文久3年(1863年)、京都藩邸警備御用を任ぜられ京都河原町土佐藩邸詰となり、以降、勤皇派の志士と交わることとなる。

【 参考・引用 】  野老山吾吉郎 - Wikipedia



因みに『芸西 歴史散歩』の方には、長宗我部元親に滅ぼされた安芸国虎の家臣じゃったと記載されちょりますが・・・・・。

【 参考・引用 】  『芸西 歴史散歩』 芸西村教育委員会・刊 (平成17年)


野老山吾吉郎 - 池田屋騒動に巻き込まれ深手を負い自刀 2014-03-14
維新の志士顕彰碑 - 和食出身の勤王の志士たち 2013-09-23

野老山吾吉郎顕彰碑(芸西村)

君は名を輝朗 通稱を吾吉郎と云う  
山野辺寿満平の二男として生まれ 文久三年新規に召出され 旧姓野老山を称える
土佐京都 藩邸に勤役中 元治元年勤王の志を以て脱藩 同年六月五日京都池田屋に同志会合中 近藤勇の指揮する新撰組に急襲せらる 
吾吉郎は同志藤崎八郎と共に 板倉筑前介を訪れようとし 三条小橋に到る時 新撰組に囲まれ奮戦して重傷を負い 長州藩邸に逃れしが創癒えず 六月二十七日割腹して果てた 時に年十九歳
京都霊山墓地に長州藩士の礼を以て葬らる
維新未だ成らざるに 若くして倒れし吾吉郎を悼み 野老山氏一族は君を顕彰して 永く後世に伝えるものである

昭和六十三年吉日建之 野老山建 藤沢直智 公文清利

【 参考・引用 】  碑文より



野老山吾吉郎顕彰碑(芸西村)

■ 池田屋事件

池田屋事件の関与については、池田屋に直接居合わせたとする伝承も残っていたが、維新土佐勤王史の通り偶然巻き込まれたとする説が有力であった。
しかし、2009年に高知県が購入した土佐京都藩邸資料(高知県立坂本龍馬記念館蔵)の中に元治元年(1864年)6月27日に記録された吾吉郎の調書が含まれていたことから、事件当日の詳細な状況や吾吉郎が池田屋の宴席に出席していた事実が明らかとなった。

■ 維新土佐勤王史(旧来説)

元治元年(1864年)6月5日夜、志士を援助していた儒学者・板倉槐堂を訪問するために同僚の藤崎八郎と共に三条小橋を通過する際、池田屋事件捕遂の任にあたっていた新撰組(会津藩兵とも)20余人に呼び止められ襲撃を受けた。
切り合いの末、負傷した吾吉郎は河原町御池の長州藩邸に逃げるも、傷が深く27日に割腹して果てた。

■ 土佐京都藩邸資料吾吉調書(新定説)

事件当日の6月5日、石川潤次郎、藤崎八郎を伴って七ツ時(午後4時)ごろ藩邸の門を出た吾吉郎一行は四条小橋の居酒屋で飲食した後、四条橋の酒屋で夕刻まで飲酒。
一度、潤次郎と離れた後、四条寺町の本屋にて日本外史(頼山陽著)を求めるも取扱いがなく、川原四条の貸本屋にて水を一杯飲んだ後、八郎と伴に池田屋を訪れ、望月亀弥太らと宴席に出席していたところ新撰組の奇襲に遭難した。
酩酊状態ながらも抗戦し、脇差一本を残し大刀や袴は捕り手に打ち落とされるも三条河原に身を隠す事に成功する(創を負ったという記載はなし)。
夜が明けぬ内に宮川町の揚茶屋に匿われたが、翌6日の昼に捜索の追手が来た事から熊野権現境内にある森升という居酒屋に移り、店の者を遣わせて石川潤次郎宛に手紙を届けた。
潤次郎は池田屋にて闘死しており、代わりに潤次郎の足軽の六兵衛という者が森升を訪れたところ、吾吉郎は隠れ回るのも限界であることから自害の意思を伝えた。
六兵衛に藩邸に戻るよう説得されたが「事件に関わったため、藩に居場所は無い」として藩邸に戻ることには応じず、自ら板倉槐堂を頼るとことなった。
同日夕、槐堂からも自害することに反対を受け、まず長州藩邸に匿って貰った上で、後日に槐堂が迎えに行く提案をされた。
その後、長州藩邸の所郁太郎を頼ったところで調書は終了している。

■ 旧説との相違点について

おそらく後日出版された維新土佐勤王史で「吾吉郎は槐堂を訪れた途上で偶然巻き込まれた」となっているのは、事件後に槐堂と会った後、吾吉郎が長州藩邸に匿って貰うための方便がそのまま伝承された可能性がある。
事件当時、池田屋に集結した維新志士を匿うことは長州藩邸にとっては危険であった。
これは土佐藩にとっても同様で、この調書が事件後に公にされなかったのもその為であろう。
また、傷が深く自害したとされていたが、吾吉調書には創を負った記載はない。
逃走しながら居を転々としている事実から、その時点で死に至る重症を負っていた可能性は低い。
当人の自害の意思は相当に固かった事が伺えるが、槐堂の迎えを待たず割腹した経緯は不明瞭である。

坂本龍馬は吾吉郎の家人に後日再会し、その死を悼んだという。
享年19。
死後、贈従五位。
墓は京都市東山区霊山、高知市薊野真宗寺山。

【 参考・引用 】  野老山吾吉郎 - Wikipedia




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