能勢達太郎生誕地碑 - 禁門の変では敗れ天王山で自刃

土佐日記 那波泊の碑と能勢達太郎生誕地碑(奈半利)

[ 高知県安芸郡奈半利町  ]


田野町から、奈半利川に架かる国道55号線(土佐東街道)の橋を渡ると、右側に奈半利中学校があり、道路の反対側(左側)に奈半利国道出張所があるがですが、その前の道路傍に二つ細長い石碑が建っちょります。

右は「土佐日記 那波泊の碑」、左は「能勢達太郎生誕地碑」ながです。


「土佐日記 那波泊の碑」は、土佐の国司じゃった紀貫之が書いた『土佐日記』に、京に帰任の途中、ここに立ち寄った事が記されちょります。

前略
九日、つとめて大湊より那波の泊をおはむとて漕ぎ出でにけり。
これかれ互に國の境の内はとて見おくりにくる人數多が中に藤原のときざね、橘の季衡、長谷部の行政等なむみたちより出でたうびし日より此所彼所におひくる。・・・・・
(中略)
これらを人の笑ふを聞きて、海は荒るれども心は少しなぎぬ。
かくゆきくらして泊にいたりて、おきな人ひとり、たうめ一人あるがなかに、心ちあしみしてものも物し給はでひそまりぬ。

十日、けふはこの那波の泊にとまりぬ

【 参考・引用 】  『土佐日記』 紀貫之 (インターネットの図書館・青空文庫より)


大湊泊地跡 - 紀貫之の土佐日記に記された大湊 2011-05-08



もう一つは、左側の「能勢達太郎生誕地碑」ながです。

能勢達太郎生誕地碑(奈半利)

能勢達太郎は天保14年(1843)奈半利庄屋・能勢魯足の長男に生まれ、名は成章、字は公達、号は南童,竜州など、変名は名和宗助と言う。

幼少より賢かったそうで、14歳の時、大望を抱いて高知城下に出、藩校・文武館に学び、16歳で得業生となり、安政6年(1859)伊勢の国学者・土井聱牙に、その後、大坂の藤沢東涯、京都の頼三樹三郎、下総の藤村弘庵らに学び、更に江戸に出て神田湯島の昌平坂学問所にも入り佐藤一斉や安積艮斎について経典を学ぶ。

また、学問の傍ら、剣術、砲術、水練等の武術と、文武両道に励んだそうです。

しかし、文久2年(1862)冬、病気のため土佐に戻るけんど、勤王の諸士と交わり、文久3年(1863)脱藩して京に出て、北添佶摩・小松小太郎・北添佶摩・安岡斧太郎らと、坂本龍馬の説く蝦夷地開拓の話に興味を持ち、越前敦賀港より蝦夷地視察のために、函館に向けて出帆し、途中、北陸・東北等諸藩の視察し、蝦夷(北海道)に向かうがです。

北添佶磨記念碑 - 新撰組に襲われ池田屋騒動で散る 2014-02-24
小松小太郎 - 龍馬の指示で北添佶摩らと蝦夷に渡るが函館で病死 2011-09-28
大和殉難烈士之碑 - 維新の礎・天誅組壊滅 2010-10-11 
(安岡斧太郎は大和天誅組義挙に参加)

同・文久3年(1863年)八月十八日の政変によって長州藩ら尊攘派は京から追放され、土佐でも土佐勤王党の獄が始まると、長州に走るがです。

元治元年7月19日(1864)前年の八月十八日の政変により京都を追放されちょった長州藩勢力は、会津藩主・京都守護職松平容らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた禁門の変が起こると、能勢達太郎は忠勇隊に参加するがです。

長州藩兵は、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で会津・桑名藩兵が衝突し戦闘が勃発し、一時は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、薩摩藩兵が援軍に駆けつけた為に形勢は逆転して敗退するがです。

生き残った真木和泉ら17名は天王山に立て籠もり、会津・桑名・彦根・篠山の幕府軍 1、500名の追撃を受け、一戦交えた後、割腹自刃したと言う。

この天王山17列士の中には4名の土佐人が居り、その一人が能勢達太郎じゃったがです。

享年23歳。



■ 安東真之助

天保14年(1843)高知城下中新町(現・高知市桜井町)の足軽類・安東柳次の長男に生まれちょります。

幼少時より剣道を修め、間崎哲馬について漢籍を学んだそうです。

土佐勤王党には179番目の血盟同志に加わっちょります。

文久三(1863)年土佐勤王党の獄が起ると、田所荘輔と尾崎幸之進と長州に脱藩し、忠勇隊に入るがです。

享年22歳。

間崎滄浪(哲馬)邸跡 - 青蓮院宮令旨事件で投獄 2010-04-19
田所左右次 - 土佐藩の砲術家で土佐勤王党にも参加 2014-04-07
(田所荘輔は田所左右次の嫡男)
尾崎幸之進墓 - 土佐勤王党に55番目に加盟 2011-01-09

■ 千屋菊次郎

天保8年(1837)安芸郡和食村の庄屋代役・千屋半平次男に生まれ、嘉永2年(1849)父が高岡郡半山村の庄屋となり、兄・七之助、弟・金策らと共に半山に移っちょります。

文久2年(1862)土佐勤王党には106番目の血盟同志に加わっちょり、京都で平井収二郎と同宿し諸藩の志士と交わる。

元治元年(1864)八月十八日の政変後、状況探索のため親戚の松山深蔵と共に長州に脱藩し七卿の警護に任じ、禁門の変が起こると忠勇隊に参加しちょります。

享年28歳。

千屋家邸跡 - 龍馬の義弟・千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡 2013-09-06
妹は「竜馬がゆく」お田鶴様のモデル - 平井収二郎墓所 2009-07-29

■ 松山深蔵

天保8年(1837) 高岡郡津野山郷北川村(現・東津野村)の庄屋・正堅の次男に生まれ、幼名は金三郎、名は正夫、のち熊蔵、深蔵に改める。

初め医師を志し、一時、半山で開業するが、万延元年(1860)千屋菊次郎と大坂に出て緒方郁蔵につき学ぶ。

文久2年(1862)土佐勤王党には147番目の血盟同志に加わっちょり、藩主東上の際には京に上り、藩命で副勅使・姉小路公知の東下にも随従しちょります。
八月十八日の政変後、千屋菊次郎と共に脱藩し、三田尻に至り七卿に従い、一時三条実美の従士となる。

元治元年(1864)年禁門の変では、土佐脱藩志士で組織された忠勇隊隊長として益田隊に属して出陣した。

享年28歳。

【参考・引用】  『高知県人名事典 新版』 高知新聞社 刊




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