雨森氏康 - 大坂冬の陣、土佐藩第2代藩主・山内忠義に従って出陣

雨森氏康(高知市)

[ 高知県高知市洞ヶ島町 ]


雨森九太夫氏康は、関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成に従って敗れ、山内一豊の臣になって土佐に来る。
山内一豊の同母弟・山内康豊に抜擢され六百石を受け、鉄砲隊を預けられる。
慶長19年(1614)大坂冬の陣には、土佐藩第2代藩主・山内忠義に従って出陣し、丹波篠山城・広島城受取・大阪城普請等に派遣された。
江戸時代初期に起こった肥後島原の乱(1637年12月11日 - 1638年4月12日)には老齢にも関わらず出陣し負傷したため、船で島原から土佐に帰路に付く途中、船中で重態となり柏島(現・幡多郡大月町)の島影が見えると息を引き取ったという。
船を柏島に付けて遺体は葬られたそうで、後の文化9年(1812)に子孫の氏久が柏島に墓を建てたそうです。
寛永十五年(1638) 75歳

【 参考・引用 】  『土佐の墓』 山本泰三・著


この墓は、高知市洞ヶ島の薫的神社にあり、御子孫が、柏島は遠いので分骨なのか分霊なのかは解らんけんど、身近に祀ったがじゃと思われます。

雨森九太夫氏康は、NHK大河「真田丸」には直接は関係ないですが、関ヶ原の戦い、大坂の陣には関わりのある人物ながです。

雨森氏康、通称・九右衛門、後、九太夫と称す近江の人、父源右衛門氏吉といふ
文禄元年 豊公(豊臣秀吉)征韓の時 従軍渡海す
(中略)
氏康 後 石田三成に仕え物頭を勤む
慶長五年 関ヶ原の役 敵首二級を獲たり軍散るに及び 近郷の一寺に至り 知る所の僧に依り身を託す
曾(かつて)東兵(東軍兵)巡邏(見回って警戒すること)此に至る
(中略)
氏康 直に脱し途にして一騎の敗兵に逢ひ 給(欺いて)馬を奪ひ逃れ 是より暫く踪跡(足あと)を○ます
同年十月 山内一豊土佐を給わるや上国(律令国の等級区分)に在りて 諸侍を招致す
氏康 又之に應(こたえ)し
公(山内一豊)弟康豊(山内康豊)の擢用する所となり 禄六百石を給ひ鉄砲衆を預けらる
慶長十九年大坂冬陣の時、山内忠義に従ひ出征す
城中(大阪城)に放つ箭(矢)に雨森九太夫の姓名を漆書す
氏康の奮職 大野半次なる者城中にあり
其 箭幹(やがら)に「か様の矢は奇特の嗜(たしなみ)に候 大坂には珍しく候」と書添へて直に射返す
是に於て氏康 強弓の名 敵味方間に賞せらる
寛永十四年 肥後島原の役、命を以て出征す
(中略)
此時 賊勢(反乱軍)益々盛に
主将・板倉内膳正重昌蔵(徳川氏家臣・板倉勝重の次男、三河深溝藩主)憤激して令を下し 正月元旦を以って大挙進撃せんとし遠国の使者は速かに軍を去て国に歸(帰)らしむ
氏康 先づ進て曰く 我 主命を以って百里来り 會す賊徒未だ滅びず何ぞ生還を期せんと衆之を賛し 一人も歸国(帰国)する者はなし
寛永十五年正月元日 諸軍一斉に城(島原城)に薄る 城中銃丸雨の如く下る
氏康等進で三丸堀下に及ぶ・・・・・氏康も亦(又)股を打れ馬より落つ・・・・・
(中略)
氏康傷重し 軍監令して歸国(帰国)療養せしむ

乃ち正月七日を以て船に乗じ島原を発し 二月三日本国柏島沖に至り 遂に死す
同島大黒山に葬る
享年七十五
墓に題して 雨森九太夫氏康といふ・・・・・

【 参考・引用 】 『続 土佐偉人傅』 寺石正路・著(大正12年)


元は父と共に石田三成の家臣として、豊臣秀吉の小田原の陣や朝鮮の役等でも数々の戦にも参加し活躍しちょるようです。

関ヶ原の合戦の前哨戦の大垣表の合戦では首を二つ討ち取っていて、石田三成の家臣・島左近(島清興)から賞美されたと言う。

しかし、関ヶ原合戦では西軍・石田三成方に加わったため敗北するがすが、如何して命が助かり山内一豊の臣になれたのかと言うのは、下記の書物にもありました。

同十五日関ヶ原合戦ニハ左備ニ罷在候所ニ 井伊兵部少輔(井伊直政)殿田中兵部少輔(田中吉政)殿両籏ニテ此備ヘ馬を被入乱合候
合戦ニ相成九右衛門先キをかせき申中手疵を蒙馬に乗おくれ候所ニ 少之間ニて味方壱人も居不申すへき様なく井伊殿之御備ニ紛れ入候
得は落人之穿鑿強ク何者ぞと相尋候ニ付 一豊様御内ニ知る人御座候故 御家號を偽り唱御威光を以不思議之命を助かり申候
此時分治部少輔家中ニては自分知行四百五拾石足軽鉄砲五拾伾預弓鉄炮頭三拾六人御座候内九人之高ニて罷在候由



関ヶ原戦で西軍は敗れ、東軍の落人狩りが厳しかった
井伊家の兵に「何者ぞ」と尋ねられ、山内一豊の家臣の中に知り合いが居たので、「山内家家臣じゃ」と偽って何とか助かった
「山内家」の名の御蔭で、「命が助かった」と・・・・・

【 参考・引用 】  『山内家史料』


また、「公(山内一豊)弟康豊(山内康豊)の擢用する所となり」とあるので、山内家の知り合いとは山内康豊なのだろうか?・・・・・

石田三成の家臣の時には四百五十石だったものが、土佐に来て山内一豊に仕えるようになって六百石に加増されちょるがですから、土佐藩の重役が知り合いだったから?・・・・・。

また、肥後島原の乱に出陣し負傷して、土佐に帰路に着くとき死亡した経緯は 『続 土佐偉人傅』とちょっと違うけんど、『南路志』にも記されちょります。。

・・・板倉内膳正軍の差引万事相談被致たる正月朔日の合戦 板倉勢敗軍し 嫡子主水正返し進まれけるに 内膳正 此上はとて即時に掛出んとし玉ふ所を 九太夫ハ内膳正鎧を掴へて 爰は大将の出で玉ふ所に非らず 合戦は懸引こそ専用ニ候 先爰を引退玉ひ 重て軍令を定て御勝利有度候と被諌ければ 内膳正いかにも尤ニ候へ 共眼前愚息主水死に臨みたるに見捨て引と云事やあらんと鎧の袖を引放し駈ヶ出玉へバ力不及 九太夫も御共申さんとて続て進ミけれバ諸国の武士我劣らじと駈け出けるが或 手負或 討死に内膳正も既に討死し玉ひ 石谷十蔵板倉主水重手を負 雨森九太夫も鉄砲に當り 郎等弐人討れけり軍散して後 九太夫ハ沖ノ島迄無恙被歸疵痛ミ出て 終に沖島にて被死ける



板倉重昌指揮の幕府軍は劣勢だったので、合戦は駆け引きだから一度軍を引くようにと押しとどめたけんど、子の主水正の軍を見捨てて引くことは出来んと板倉重昌は無理やりに戦場に突撃をした
仕方が無いので九太夫は「御共申さん」と進撃すると、諸国の軍も駈け出した
そのため負傷する者、討死する者が続出し、結局、板倉重昌も討死ししてしまった
当の雨森九太夫は鉄砲傷を受け、帰国途中の沖ノ島辺りで傷が悪化して亡くなったと・・・・・

【 参考・引用 】  『南路志』


雨森九太夫氏康は、関ヶ原の戦いで、せっかく命拾いをしたのに、肥後島原の乱への出陣で、深手を負い土佐を目の前にしながら命を落とすがです。

何でも、当初、肥後島原へは板坂利正じゃったけんど、生憎病気じゃった事から、急遽、雨森九太夫氏康に白羽の矢が立ったとか。

それも寛永14年(1637)出陣ですき、74歳と言う、老骨に鞭うっての出征じゃったがです。

本当じゃったら、静かに余生を送れたろーに・・・・・。

板坂利正 - 関ヶ原の戦いで、山内一豊の母衣武者5騎の一人 2011-12-17

土佐雨森氏(土佐藩)

浅井家滅亡後に、土佐山内家に仕えた家。
土佐山内藩での雨森家の祖は雨森氏康(九太夫)で雨森氏元祖雨森三左衛門良治13代良友3男菊若の末である。
山内一豊の土佐入国(1600)に当たり、家臣増強の措置が採られ弟君古匠作(康豊)様のご推薦で採用され、臣従して入国した(600石、旗奉公)島原の乱で土佐藩を代表して陣頭指揮し、敵弾を受け重傷し、土佐に送還中柏島沖で戦死(柏島、高知市薫的神社裏に墓地)。

氏康の分家の祖氏行(七三郎・儀右衛門)は、山田おあんの夫である。
山田去暦の娘(山田おあん)が雨森氏行(儀右衛門)に嫁し、その(おあん)の語る内容を記録したものである『おあむ物語』は、中世文学として著名。
また幕末土佐藩・迅衝隊の山田平左衛門は山田去暦の子孫である。


【 参考・引用 】  雨森氏 - Wikipedia


山田平左衛門 - 土佐での始祖は山田去暦、その娘は「おあん」 2016-08-02
雨森舌戒 - 土佐勤王党の尊皇攘夷に賛同し佐幕派を弾劾  2011-07-28



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