野根山二十三烈士の墓 - 武市瑞山の釈放を求め刑場の露と消える

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

[ 高知県安芸郡田野町・福田寺  ]


田野駅の東約400m程の所で、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架と国道55号線(高知東街道)が交差しちょりますが、その南側辺りに、浄土宗福田寺があるがです。

福田寺を、普通に読んだら「ふくだ寺」と読むと思うけんど、正しい読みは「ふくでん寺」です。

このお寺さんは、野根山二十三烈士の首領・清岡家の菩提寺でもあり、境内に野根山二十三烈士が眠っちょります。

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

本堂正面、武市瑞山像の右に「二十三士記念碑」が建っちょります。

二十三士顕彰碑

二十三士が処刑されて、三年後、明治維新の大業が成った。
明治十年、遺族に族禄が復活され、明治二十四年、徳旨をもって贈位の沙汰があった。
明治三十年かっての同志で、当時高知県知事であった石田英吉の発議により、この碑が建てられた。
題字は東久世通禧による。

【 参考・引用 】  説明板より


因みに、石碑の撰文は石田英吉です。

石田英吉邸 - 坂本龍馬と亀山社中や海援隊で活躍した海援隊隊士 2014-09-05

東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)

天保4年(1834) - 明治45年(1912)
幕末の朝廷で少壮の公家として尊王攘夷を唱え活躍した。
しかし文久3年(1863年)、八月十八日の政変によって、朝廷の実権が尊皇攘夷派から公武合体派に移ると、長州藩兵に守られ、三条実美・三条西季知・澤宣嘉・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳とともに船で長州へ逃れた。
このことを世に「七卿落ち」という。
元治元年(1864年)、長州から大宰府に移された。
王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。
神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。

【 参考・引用 】  東久世通禧 - Wikipedia



野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

文久3年(1863)9月5日奈半利河原で処刑された23名の遺体は、清岡道之助の遺言によって、この福田寺に埋葬されたそうです。

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

■ 清岡治之助正道(副首領)

安芸郡中山郷(現・安田町中山)に生まれる
土佐藩郷士
土佐勤王党143番目の血盟同志
田野学館文武副教頭
享年39歳

辞世の句 「身は国に心は阿波にとどまりて 霊の真柱たわむべきかわ」


清岡治之助屋敷跡 - 野根山二十三志士の副首領 2015-07-01

■ 清岡道之進成章(首領)

安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる
土佐藩郷士
享年32歳

清岡道之助の辞世の句を詠む途中、斬首されたたと言う

男子従來甘鼎鑊(聲末畢頭己墜地)


聲(大きな声)・畢(おえる・おわる)の意

「聲末畢頭己墜地」は、辞世の句を読む途中、大きな声(首切り役人の声でしょうか)と共に、首が地面に落ちたと言う意味じゃと思います。

清岡道之助旧邸 - 野根山二十三志士の首領として決起 2016-09-07

■ 寺尾権平良利

天保12年(1841)安芸郡安芸浦西浜(現・安芸市)土佐藩郷士・寺尾善之助の長男に生まれる
少小壮より文武に志、高知に出て剣術・学問を学ぶ
妻は、同志・須賀恒次義氏の妹
享年24歳

■ 柏原禎吉義勝

天保9年(1838)安芸郡安田村(現・安田村)土佐藩郷士・柏原治右衛門の長男に生まれる
始め高松順蔵に学び、嘉永2年(1849)から安政6年(1859)まで高知に出て剣術を日根野弁治や樋口甚内(樋口真吉の弟)学び、砲術を田所左右に学ぶ
土佐勤王党150番目の血盟同志
文久2年(1862)年6月藩主・山内豊範に扈従して上京し、10月には勅使・三条実美を護衛して東下し、翌文久3年(1863)年2月藩主に従い帰国した後、田野郡奉行所軍局の民兵小頭となる
妻は、同志・柏原省三信郷の妹
享年27歳

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野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

■ 柏原省三信郷

天保6年(1835)安芸郡安田浦(現・安田村)の郷士・柏原多喜次の三男に生まれる
容姿が美しく婦女子のようで、性質もまた温順で、父母にも良く尽し、常に笑顔で持って人に接した
安政2年(1855)大阪に出て諸方郁蔵に蘭学・医学を学び、修行の傍ら多くの志士と交わる
一時土佐に戻り医業を営むが、文久元年(1861)年長崎に赴き、蘭学を学び帰郷して再び医業を営んだ
妹は、同志・柏原禎吉義勝の妻
享年30歳

■ 木下嘉久次秀定

弘化元年(1844)安芸郡北川郷(現・北山村)の代々土佐藩岩佐関所番頭を務める木総九郎定行の子に生まれる
4歳で書を読み天才児と言われ、8歳の時、浄土寺の南 月溪に学んじょります
安政3年(1856)年父を病で亡くした後、後を継いで土佐藩岩佐関所番頭となり、父の遺訓を奉じ弟・慎之助と共に文武の練磨に努め国事に奔走する
木下慎之助彝正は弟で、妻は同志・横山英吉正利の妹
享年21歳

南 月溪 - 歴史を説き皇室を尊ぶことを強調し幕末の志士を育てる 2012-01-09

■ 木下慎之助彝正

嘉永2年(1849)安芸郡北川郷(現・北山村)の土佐藩岩佐関所番頭・木総九郎定行の子に生まれる
元治元年(1864)年7月野根山屯集の謀議の際、兄・嘉久次が「慎之助は弱齢にして意思未だ定まらず、もし事破れしときは共に死して家祀絶え先祖に対し不幸なれば避難せよ」と退去を勧めるが、先憂後楽を貴ぶとは兄の平生の訓言ではないと聞き入れず、組入るがです
享年16歳(最年少)

■ 近藤次郎太郎為美

天保11年(1840)安芸郡西島村(現・安田町西村)に安芸郡安芸村郷士・川口禎五郎の三男に生まれる
安政2年(1855)西島村の庄屋。近藤恒太の養子となり、養父に代わってその職を勤める
学を高松順蔵、砲術を田所左右次、剣術を谷台六に学ぶ
土佐勤王党126番目の血盟同志で、文久2年(1862)五十人組の一人として江戸に上り、山内容堂の護衛に当った
享年25歳

高松順蔵邸跡 - 坂本龍馬の長姉・千鶴さんの嫁ぎ先 2015-02-13
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野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

■ 田中収吉惟清

天保14年(1843) 安芸郡吉良川村し(現・室戸市吉良川)の大庄屋・田中又助の次男に生まれる
幼時より学問を好み、漢学を公文周介、藩士の岩崎馬之助(秋溟)に学び、江戸に出て塩谷宕陰の門弟となり漢学を学ぶ傍ら、諸藩の尊王攘夷派の志士達と交わる
享年22歳

■ 吉本培助元枝

天保15年(1844)高岡郡宇佐村(現・土佐市)の庄屋・元助の長男に生まれる
後、父に附いて安芸郡田野浦(現・田野町)へ転居し、剣術を武市半平太(瑞山)に学び、漢学を市川庫次に学ぶ
文久元年(1861)年以降、父に代わって田野郡奉行所吏務を勤め、砲術・剣術・漢学に励む
享年21歳

■ 安岡哲馬忠総

弘化4年(1847)父・安岡忠郷が土佐郡福井村の庄屋を務めていた時に、四男に生まれる
父が郷里の安芸郡馬ノ上(現・芸西村)の庄屋になった後、田野学館に学ぶ
父が土居村(現・安芸市)の五藤家に奉仕すると鉄馬も従い、其の家臣・弘田又右衛門につき漢学を学ぶ
やがて郡庁田野学館で剣術の相手役を務める
親子の最後の別れは、「鉄馬、盆祭を父母と談笑して平常のように振る舞い、7月16日家を出て再び帰らず」と
享年19歳

安岡金馬顕彰碑 - 坂本龍馬の海援隊にも参加 2013-07-03

■ 川島総次友利

文政7年(1824)安芸郡岩佐村(現・北川村)の関所番卒・川島七五郎の子として生まれ、元治元年 (1864)年父に代わって職を継ぐ
妻は、中岡慎太郎の長姉・縫で、明朗闊達で常に国事を憂い勤王の志を抱いていた
享年41歳

辞世の句 「奈半利川 かへらぬ水の底ふかく 尽す心のあわとなりぬる」


因みに、タレントの「劇団ひとり(本名・川島省吾)」さんは、御子孫にあたります。

中岡慎太郎生家跡 - 復元され高知県と北川村の指定文化財に 2015-06-19

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

■ 檜垣繁太郎梁之

嘉永2年(1849)安芸郡羽根村(現・室戸市)の庄屋・俊三の子にに生まれる
幼くして父を失う
幼少より気骨あり、人に劣るを恥とする
13歳の時、親戚になる清岡道之進成章に附き大阪に出て漢学を学び、また国に戻っても文武を学び田野学館に学ぶ
享年16歳

■ 千屋熊太郎孝樹

天保15年(1844)安芸郡和食村(現・芸西村)の庄屋・千屋清助の長男に生まれる
千屋菊次郎・金策は従兄弟になる
16歳の時、高岡郡葉山村(現・津野町)の庄屋の叔父・千屋半次郎の家に託される
叔父は熊太郎に医学を学ばせ、文久元年(1861)大坂に出て緒方郁蔵に学び、文久2年(1862)帰国して開業
勤王の志厚く、藩政の佐幕派を憂い国事に奔走する
妹・富士は、土佐勤王党血盟同志依岡権吉(依岡珎麿)の妻
享年21歳

千屋家邸跡 - 龍馬の義弟・千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡 2013-09-06
依岡権吉 - 土佐勤王党に31番目に加盟 2013-10-07

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

■ 宮田頼吉貞亮

天保6年(1835)安芸郡安田村(現・安田町)の郷士・宮田善左衛門の次男に生まれる
学を高松順蔵、剣術は武市半平太に学ぶ
土佐勤王党32番目の血盟同志で、文久2年(1862)年4月、吉田東洋暗殺の謀議に与り、4月8日の夜ついに殺害したことを同志に知らせた。
同年6月藩主山内豊範東上の折、武市瑞山に従って江戸に出て諸藩の有志と交わった。
享年30歳

■ 横山英吉正利

天保12年(1841)安芸郡伊尾木村(現・安芸市)の地下浪人・源七の子に生まれる
幼少時より武術を好み、砲術は田所左右次に学ぶ
あるとき執政五藤主計が郡中の若者を安芸の東浜に集めてその技を試みさせた。英吉は強薬を装し、火箭を連発したが姿勢が少しも乱れず、人々を驚嘆させたという
万延年中、剣を樋口甚内に学び、安政年中に足軽に登用され、田野文武館で研磨
享年24歳。

田所左右次 - 土佐藩の砲術家で土佐勤王党にも参加 2014-04-07

■ 宮地孫市利渉

弘化3年(1846)高岡郡新庄村長竹(現・須崎市)の郷士の家に生まれ、後、土佐郡江ノ口村(現・高知市)に移り、長じて宮地の姓を継ぐ
文久2年(1862)足軽になり、安芸郡府に勤務
元治元年7月13日、突然、先祖の墓参りに来たと江ノ口村に帰り、弟・堅一郎に短刀を示して「田野村剣匠氏詮の作った上作。おまえは父のもとにあって孝養怠り無きように、吾はよそに居てそれが出来ないので兄に代わりて孝道をつくし文武を励むべし」と告げ、翌朝、古里・新庄村の先祖の墓に参り、そのまま田野村に赴き、親兄弟と最後の別れとなったと言う 
享年19歳

■ 小川官次好雄

天保15年(1844)安芸郡島村(現・安田町)の庄屋・重次郎の次男に生まれる
田野学館に学び足軽になり、民兵操練の時は常に分隊長半隊長の職に当たった
享年21歳

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

■ 岡松恵之助盛直

天保6年(1835)安芸郡東川村(現・安田町)の地下浪人・平五郎の次男に生まれる
高松順蔵に経史を学び、文武に優れていた
文久3年(1863)足軽に登用される
享年30歳

■ 新井竹次郎義正

天保10年(1839)香美郡土居村(現・香南市)の庄屋の家に生まれる
幼少時より学問を好み、貧窮のため藩士の従僕となって上京し、労役しつつ勉学し、帰郷して森田梅礀に詩文を学ぶ
文久2年(1862)年叔父・林左衛門の死後、後を継いで北川郷総老となる
享年26歳

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

■ 宮田節斎秀貫

吾川郡弘岡村(現・高知市春野)の住職の子に生まれるが、後に、安田村の医師・宮田謙次の養子となり、医師となる
土佐勤王党127番目の血盟同志
高松順蔵の門弟
享年29歳

宮田節斎 - 土佐勤王党に127番目に加盟・野根山二十三志士の一人 2016-05-31

■ 豊永斧馬方鋭

天保8年(1837)安芸郡安田村(現・安田町)の豊永吾八の次男に生まれる
初め農業や染物に従事したが、高松順蔵に学び、剣術を樋口甚内、砲術を田所左右次に学ぶ
安政年間に、高知に出て武市瑞山に剣術を学ぶ
万延元年(1860)田野の郡奉行所軍局の民兵にさいようされる
文久2年(1862)五十人組に加わり江戸に赴き、山内容堂の護衛に当たり、江戸・大坂を往復して国事に尽くした
翌年、藩の重役・小南五郎右衛門に従って土佐に戻る
土佐勤王党の獄で同志達が投獄されると、挽回のために尽力した
享年27歳。

田所左右次 - 土佐藩の砲術家で土佐勤王党にも参加 2014-04-07

■ 須賀恒次義氏

天保6年(1835)安芸郡安芸浦西浜(現・安芸市)の商人・庄右衛門の長男に生まれる
幼少時より文武を好み、砲術を田所左右次に学び、さらに高知に出て致道館で儒学・国学を学ぶ
この頃、抜擢されて民兵となる
岩崎馬之助、能勢達太郎・中岡慎太郎らと交友深く、文久元年(1861)以降、共に武市瑞山らの尊王攘夷運動に加わる
中岡慎太郎が脱藩するに臨み、恒次に一緒に脱藩をしないかと勧められるが、国に留まる事を告げ再会を約束して別れ、土佐に残った恒次は「一藩勤王」を目指して武市瑞山と行動を共にする
享年30歳

田所左右次 - 土佐藩の砲術家で土佐勤王党にも参加 2014-04-07

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

首領・清岡道之助と副首領・清岡治之助の首は、鏡川の雁切河原で3日間晒されて、家族の元に戻ったそうです。

中でも、清岡道之助の妻・静子は、亡夫の頭髪に櫛を入れて整え、作法に従い柄杓の柄で首と胴をつないだと言エピソードは有名な話です。

夫の墓碑の前に、妻・静の詠んだ歌を刻んだ碑が建っちょります。

よしやこの 土にかばねは埋むとも 名をば千歳の松にとどめん



野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

墓所は、明治24年の特旨により贈位を受けた時に、清岡道之助の妻・静によって修築され、大正2年に静が私財を投じて現在の墓所に再改築されちょり、基礎段の上に23柱の墓標が並んじょります。

野根山二十三烈士の墓(田野町・福田寺)

申渡文

寺尾権平  柏原禎吉   柏原省三
木下嘉久次 木下慎之助  吉本培助
田中収吉  近藤次郎太郎 安岡哲馬
川島総次  檜垣繁太郎  千屋熊太郎
宮田頼吉  横山英吉   宮地孫市
小川官次  岡松恵之助  新井竹次郎
宮田節斎  豊永斧馬   須賀恒次

右は徒黨を募り兵器を携へ野根山中へ屯衆強訴の上謀反の企所業遂に阿波表へ遁亡不届至極の科を以て打首被仰付

九月五日

清岡道之助 清岡治之助

右は徒黨を募り兵器を携へ野根山中へ屯衆強訴の上謀反の企所業遂に阿波表へ遁亡不届至極の科を以て打首被仰付於雁切川梟首(きょうしゅ)三日晒(さらす)以後拔捨被仰付

九月五日


清岡道之助と清岡治之助の両名には、「打首の後、雁切川原に刎ねた首を五寸釘を二本下から打ち込んだ台に載せて3日間見せしめとして晒しものにし、その後、首を抜き捨てる」と言う「獄門刑」を行なっちょるがです。

通常、このような刑の場合、財産は没収、死体の埋葬や弔いは許されなかっと言う。

・・・・・要は、攘夷の実行を促す事と、武市の寛典(寛大な法的な処置)を請ふ二つに外ならぬが、多少脅迫的の意味も含まれている。
実に彼等は必死の諸氏であったのだ。
もとより二十三人位の小人数であるから、兵隊(土佐藩兵)が押寄せてゆくと、阿波路に脱走したけれども、阿波も矢張り佐幕家が旺盛を極めて居ったので、警戒厳重、悉(ことごと)く押へられて、国境で(土佐)藩に引渡され、田野の獄中に投せられ、九月五日、竟に奈半利川畔に於て斬首せられた。
何でも其の罪文は福岡孝弟の手に成った者だ相だ。
福岡等は、尤も下士勤王家を嫌うて、大に圧迫を加へたのだ。
・・・・・

【 参考・引用 】 
『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』 佐佐木高行・著(大正4年)より抜粋


佐々木高行の文には、「福岡孝弟等は、尤も下士勤王家を嫌うて、大に圧迫を加へたのだ。」 とあるけんど、勤王云々以前に、長く土佐藩の上士達(一部じゃろーけんど・・・)が下士達(郷士達)を蔑み嫌っていた事が根底にあり、それが幕末期に両者の溝は大きくなった事を如実に表現しちょると思います・・・。

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因みに、『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』 が出版されたのは、福岡孝弟の死の4年程前、過ぎたる事と言えども郷士に対し寛大だった佐々木高行に、こうまで書かれて福岡孝弟は如何思ったろうねー・・・・・。

五箇条御誓文 - 福岡孝弟誕生地 2008-12-21
土岐真金墓 - 龍馬亡き後の新海援隊でも活躍 2010-11-01

【 参考・引用 】
『二十三士』 中野浩気・著 (明治40年)
『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』  佐佐木高行・著 (大正4年)
『中岡慎太郎』 尾崎卓爾・著 (大正15年)
『高知県人名事典 新版』 高知新聞社 刊




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