比江山城跡 - 長宗我部国親の弟・ 国康の二男・比江山掃部助親興

比江山城(南国市比江字城山)

[ 高知県南国市比江字城山  ]


南西の紀貫之邸跡・古今集の庭付近から見た、比江山。

国司館跡(紀貫之邸跡) - 国府史跡 2009-05-10

比江山城(南国市比江字城山)

比江山は紀貫之が都の比叡山を偲んで名付けたと言われています。

また、この山には数々の史跡が点在している事から、比江山の南麓にある日吉神社の鳥居傍に「南国市史跡 比江山」の碑と説明板があり、その史跡の一つが「比江山城址」ながです。

比江山城(南国市比江字城山)

比江山城址

長宗我部元親の従兄、比江山掃部助親興の城址。
世継ぎ問題で元親に切腹させられ、一家滅亡した。
【 参考・引用 】  説明板より抜粋


日吉神社 - 国衙鎮護の祭神 2009-12-05
乾の大墓 - 乾氏一族の墓所 2009-12-04
永源寺 - 土佐藩家老・乾氏の菩提寺 2009-12-03

比江山城(南国市比江字城山)

日吉神社のある峯の頂上部に神社があり、ここが比江山城跡の詰めの段のようです

比江山城跡

元亀の頃、長宗我部氏これを築き岡豊城の外廓としたものである。
その最後の守将は比江山掃部助親興であるが、天正十年より十三年阿讃出征の時は、桑名弥次兵衛が預かっていた。
天正十六年岡豊城が高知に移動したと同時にこの城も廃城となった。
現在比江山神社のあるところが、もとの本台(天守)といわれ、いまは土塁若干を残すのみである。

【 参考・引用 】  説明板より


比江山城(南国市比江字城山)

比江山神社

比江山掃部助親興公夫婦並にご両児を奉祀する。
親興は長宗我部家の世継ぎに関する意見が用いられず反対派のざん言にかかり大高坂西の廊で天正十六年九月切腹し高知市升形に祭られるや(出雲神社境内)。
長男は改田へ逃れる道中で切られ、夫人と次男は改田の善勝寺で自害したといわれる。

【 参考・引用 】  説明板より


比江山掃部介妻子の墓 - 元親の家督相続問題に連座して殺害される 2016-06-24

比江山掃部助親興は、長宗我部元親の父・国親の弟・国康の二男になり、親興の兄は戸波城主・戸波右兵衛親武ながです。

戸波城跡 - 一条氏家臣・福井玄蕃が城代 2016-03-02

比江山城(南国市比江字城山)

南の国分川右岸土手近くから見た、比江山。


桑名弥次兵衛

桑名家は伊勢桑名(現在の三重県桑名市)の出自で、遠祖は伊勢平氏の一族に当たり、戦国時代の初期に桑名丹後守が土佐に来たのが始まりで、元親の土佐平定に功績を立てて三家老の一に列したとされている。
吉成は丹後守の子・藤蔵人の子で、伯父に桑名太郎左衛門がいる。

父や伯父らと元親の四国平定に貢献し、天正期に中村城代に任命された。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉の命令で元親が九州征伐に出陣した際には従軍し、12月の戸次川の戦いにも参加するが島津家久の前に大敗し、元親を守り抜いて長宗我部軍の撤退に貢献した。

盛親にも仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親が西軍に属して敗れ改易になると、家臣の中に改易を受け入れず籠城を主張する者が相次いだが、吉成は抵抗しても無意味と悟り、自らや長宗我部家に所縁のある僧侶を使者として送り説得にあたり、領地と城の接収に尽力した。

吉成の政治的・事務的な手腕は東軍方の諸将の間でも高く評価され、盛親の兄・津野親忠と懇意にしていた藤堂高虎はその手腕を認めて2,000石で吉成を召し抱えた。

慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣・八尾の戦いで藤堂軍の一員として参加し、かつての主君・長宗我部盛親の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた。
主君と槍を交わすのに忍びず、自ら敵中になだれ込み、自殺したとも言う。

【 参考・引用 】  桑名吉成 - Wikipedia




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