小笠原唯八(牧野群馬茂郷) - 会津若松攻めで弟と共に敵弾に倒れる

小笠原唯八【牧野群馬茂郷】(西久万)

[ 高知県高知市西久万 ]


ここも判りずらい場所で、山中をたつくって(土佐弁で、駆けずり回るの意)ようように見つけた、お墓です。

墓碑には牧野群馬茂郷とありますが、元の名は小笠原唯八茂郷の事です。

小笠原唯八は、文政12年(1829)に高知城下(現・高知市)の、土佐藩馬廻格250石・小笠原弥八郎の嫡男として生まれちょります。

文久年間の初めに山内容堂に仕え、のちに大監察兼同軍備御用役や仕置役等の要職に就いちょります。

土佐勤皇党の獄では極めて厳酷な態度でもって臨み、投獄された土佐勤皇党員を苦しめたと言う。

また、元治元年(1864)に起こった「野根山屯集事件」でも討伐隊を率いて鎮圧し、捕まった二十三名に対して何の取り調べもしないまま、奈半利河原で斬首しちょります。

当初は佐幕派じゃったけんど、盟友・板垣退助と結んで武力倒幕主義に傾斜し、戊辰戦争では迅衝隊の別撰隊小隊司令として藩兵を率い佐幕派の伊予松山藩を降伏させた。

名も小笠原唯八から牧野群馬と改めちょります。

その後、官軍の大総督府御用掛や江戸府判事、江戸北町奉行等に就任する。

上野戦争や東北諸藩との戦いにおいても活躍するが、慶応4年(1868)奥羽討伐では板垣退助の指揮下に入り、大総督府諸道軍監として諸兵を統率して戦功を挙げるが、慶応4年(1868)8月23日会津若松攻めで、会津若松城内からスペンサー銃によって狙撃され負傷し2日後の8月25日に死去しちょります。

享年40。

亡くなる時の最後の言葉は、「われ死所を得たり」と言ったそうながです。

土佐勤皇党の獄での取り調べや、野根山屯集事件での対処を見ても、世人じゃ無慈悲で残酷な人物と映るけんど、小笠原唯八も一人の土佐藩士。

野根山二十三烈士殉節の地 - 藩は一度の取り調べもせず極刑に処す 2015-02-20

あくまでも藩命に従って指示された役目をまっとうしただけで、本意ではなかった事でしょう。

思うに、断罪行為に対して悔いもあったでしょうから、その後の日々は死ぬ間際まで苦悩と懺悔の日々じゃったと思うがです。

死を間際にして、やっと穏やかに逝けたんでしょうねー。

小笠原謙吉茂連(西久万)

隣には、弟の小笠原謙吉茂連の墓碑がありました。

小笠原弥八郎の三男で、天保11年(1840)に生まれちょります。

平素より尊皇の志高く、戊辰戦争に際しては官軍土佐藩の主力部隊である迅衝隊の第三番隊長に任ぜられ従軍し、甲州勝沼の戦いなどを初め各地を転戦し功名を挙げちょりますが、慶応4年(1868)8月23日会津若松攻めの際、敵弾を受けて討死しちょります。

享年29。


本墓は、会津若松の西軍墓地に兄弟が眠っちょります。

会津若松西軍墓地 1 - 会津戦争で亡くなった土佐藩兵49名が眠る 2015-09-28
会津若松西軍墓地 2 - 故郷遠き会津若松に眠る土佐藩兵49名 2015-10-26

会津若松攻めには二男も参戦しちょりますき、土佐の墓は、兄・小笠原唯八と弟・小笠原謙吉の遺髪を持ち帰り、埋葬した分墓だと思います。

【 参考・引用 】  
『高知県人名事典』 高知新聞社
『土佐の墓』 山本泰三・著
小笠原唯八 - Wikipedia
小笠原茂連 - Wikipedia




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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