小笠原保馬 - 土佐勤王党に8番目に加盟、母は武市瑞山の姉・美多

小笠原保馬(高知市)

[ 高知県高知市介良 ]


小笠原保馬は、天保13年(1842)に、城下・鏡川河畔の雑喉場(現・高知市)の小笠原嘉助正孝の子に生まれ、名は正実、通称・忠五郎と言う。

父・小笠原嘉助正孝の後妻になる母・美多は、土佐勤王党党首・武市瑞山の姉になりますき、叔父・甥の関係になるがです。

武市瑞山墓 - 武士としての誇りと、藩主に対する忠誠の間で 2010-07-11

因みに、小笠原嘉助正孝の長女は、土佐勤王党血盟同志・島村左伝次(島村雅文)に嫁ぐ。

小笠原保馬は、文学を土佐勤王党血盟同志・田内衛吉の義父・田内菜園に学び、剣は武市瑞山に学んじょります。

田内衛吉墓 - 土佐勤王党には92番目に加盟 2011-08-27

文久元年(1861)武市瑞山と江戸に出て、桃井春蔵に剣を学び、江戸滞在中に、土佐勤王党を結党すると8番目に血盟同志になっちょります。

桃井春蔵道場・士学館跡 - 武市半平太が塾頭を務める 2012-02-17

文久2年(1862)6月には藩主・山内豊範の参勤発途に随従し上京、10月には勅使・三条実美の江戸下向の護衛にもあたっちょります。

三条実美墓 - 七卿落ちの一人 2012-02-13

文久3年(1863)八月十八日の政変が起こると、山内容堂は勤王党への弾圧を行い、武市瑞山以下多くの土佐勤王党員が投獄されるがです。

山内容堂・西郷南州会見の地 - 四侯会議に向けて 2011-07-05

しかし、大石弥太郎らと武市瑞山らの釈放を求め奔走するも叶わず、翌慶応元年(1865)武市瑞山は切腹を申しつけられるがです。

大石弥太郎 - 武市瑞山らの赦免を同志と共に藩庁に歎願するも叶わず  2016-07-13

因みに、主だった土佐勤王党関係者が高知城下に集って協議し藩庁に武市瑞山らの釈放を歎願するも要求は受け入れられず、武市瑞山らを救出しようと安芸・幡多二郡の志士が決起したのが清岡道之助を首領とする野根山二十三士だったがです。

野根山二十三烈士殉節の地 - 藩は一度の取り調べもせず極刑に処す 2015-02-20

南会所大広庭に於いて、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人により心臓を突かせて絶命したと伝わっちょりますが、この二人が武市瑞山の妻・冨の弟になる島村寿太郎と、小笠原保馬じゃったがです。

殉節之碑 - 武市瑞山 2009-02-26
島村寿之助 - 土佐勤王党に18番目に加盟し、武市半平太の参謀役 2011-05-31

戊辰東征にも参加し維新後は県の官職に就き、明治16年(1883)42歳で亡くなっちょります。

【 参考・引用 】  
『高知県人名事典』 高知新聞社
『土佐の墓』 山本泰三・著




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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