毛利勝永屋敷跡付近 - 大坂の陣・大阪城五人衆の一人・父は毛利勝信

毛利勝永屋敷跡付近(高知市)

[ 高知県高知市久万 ]


NHK大河「真田丸」も、大坂城五人衆の長宗我部盛親、明石掃部守全登、後藤基次、主役の真田信繁と揃い、いよいよ関ヶ原の戦いへとドラマは入っていきよります。

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今回は、土佐の「真田丸」関係第三段として、大坂城五人衆のもう一人の戦国武将・毛利勝永を、御紹介しちょきます。

毛利勝永は、天正6年(1578)、森吉成(毛利勝信)の子として、尾張国(近江国長浜説も)で生まれ、父・森吉成(毛利勝信)は早くから豊臣秀吉に仕えた古参の家臣で、勝永も同様・豊臣秀吉に仕えちょります。

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天正15年(1587年)、九州平定を終えた豊臣秀吉は、父・森吉成と勝永に豊前国8郡の内、黒田孝高に6郡12万石を、吉成に規矩郡、高羽郡の2郡6万石を与えて小倉の領主としちょります。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、父・毛利吉成(毛利勝信)と子・毛利勝永は西軍に参戦しちょります。

毛利勝永は宇喜多秀家、小早川秀秋、毛利秀元、吉川広家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂、大谷吉継らと伏⾒城の戦いに参戦するも、多くの家臣を失っため関ヶ原本戦では、毛利輝元の家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下に入るけんど、吉川広家は黒田長政を通じて徳川家康に内通して毛利領の安堵という密約を取り付け東軍への寝返りを謀っていて、展望の利かない南宮山の山頂にて身動きが取れず、毛利勝永も関ヶ原の本戦には参加できないまま西軍は敗戦となるがです。

九州では、黒田如水が関ヶ原で両軍が戦っている隙に、あわよくばと豊後平定に乗り出すがですが、関ヶ原の戦いが一日で決着したことを知ると、徳川家康に服従するため井伊直政に書状を送り、徳川家康から「豊前一国の切り取り自由と安堵の約束」を取り付けるがです。

黒田如水は、このまま豊後平定だけで終わらせると徳川家康に疑われると、豊前小倉におった毛利勝信を攻め、降伏するように勧めるがです。

毛利勝信は、旧知の仲じゃった⿊⽥官兵衛の説得じゃったき信じたがでしょうけんど、徳川家康が黒田如水に「豊前一国の切り取り自由、安堵の約束」をしちょったき、結局は騙されたようなもので、毛利勝信・勝永は親子は改易され、身柄を肥後の加藤清正に預けられ、その後に、やはり旧知じゃた山内一豊に預けられたと言う。

豊臣家臣団で上役の勝信が一豊の面倒を見てきたことに加えて、勝永が石田方にありながら一豊の妻の千代の保護に奔走していたためじゃそうで、山内一豊への千代の進言で土佐に招き、山内家では1千石の封地をあてがい父子とも手厚く遇され、勝永の弟は山内姓を与えられ山内吉近を名乗り2千石を与えられたが、慶長18年頃、土佐を去り紀州浅野家に仕えたとされちょります。

また、毛利勝永は現・高知城の築城にも参加しちょるようで、大手門を城の西側に開き菩提寺は北にと進言するも、山内一豊の弟・山内康豊は聞き入れず、結局現在のように、大手門は城の東に、菩提寺は南になったようです。 

そして、毛利勝永が屋敷を構え生活しちょったのが、碑も何もないけんど写真の辺りじゃそうです。

久万の久万山南端にある。
毛利屋敷と呼んでいる。
・・・・・

【 参考・引用 】 『高知市史跡めぐり』 橋詰延寿著(昭和44年)より抜粋



慶長19年(1614)、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし、集まった浪人を併せた豊臣方の数約10万人。

其の中に、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、明石全登に、毛利勝永の姿があった。

大阪冬の陣では、真⽥信繁(真⽥幸村)らと共に城から撃って出る積極策を提案したが、大野治長や淀殿らに受け入れ、籠城戦となり西丸ノ西・今橋を守備したが和議が成立する。

翌慶長20年(1615)、大阪夏の陣・天王寺口の戦いでは、徳川家康の本陣正⾯・四天王寺南門前に布陣し、本多忠朝や小笠原秀政ら討ち取り、続いて浅野長重・本多忠純らの徳川勢を混乱させて撃破・突破し、徳川本陣に突入するも真⽥信繁(真⽥幸村)隊が壊滅し戦線が崩壊したため撤退するがです。

退却戦でも⽑利勝永の指揮はさえ、徳川方・藤堂⾼⻁、井伊直孝、細川忠興らの攻撃を最後まで防だと言う。

しかし、堀を埋められ裸同然の大坂城には徳川軍が押し寄せ、内通者によって本丸に火の手が上があがり、大坂城は陥落しちょります。

そして、毛利勝永は豊臣秀頼・淀殿らを介錯し、自らも子の毛利勝家、弟・山内勘解由吉近と共に自害したと言われちょります。

後世、江戸の文人曰く、「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」とも。

ただ、大阪城が落城した際にゃ豊臣秀頼らが自害したのを見届けた徳川側の者はいないし、死体も発見されちゃーしません。

ましてや徳川方にしても、大阪城は落城しても、まさか「逃げられた」とは記録も出来ない訳で、豊臣秀頼も淀君も城を脱出して薩摩へ落ち延びたと言う説があるように、もしかしたら薩摩に逃がした後に毛利勝永・勝家親子も土佐に落ち延び、ひっそりと隠れ住んだのかも知れませんー・・・・・。

豊臣秀頼の薩摩落ち伝説 さつま人国誌「豊臣秀頼の薩摩落ち伝説」 | 373news.com

それに土佐に残された毛利勝永の妻と次男・鶴千代らは⾼知城にて軟禁されたとも、京に護送され妻は自害、子は斬⾸されたとも言われちょりますが定かじゃないようです。

兎に角、土佐で天寿をまっとうしたとの伝承もあり、土佐にゃ毛利勝信の縁者も居るし、当の毛利勝永の子孫の方も居られて、無いはずの毛利勝永と勝家の墓と称する五輪塔も伝わっちょります。

もしかしたら、土佐藩第2代藩主・山内忠義は徳川家康からも賞賛されるほど聡明じゃった人物じゃともされちょりますき、徳川方の謀反人と判っていても最後まで毛利勝信・勝家親子への恩に報いるべく、毛利一族を密かに庇護匿ったのかも知れませんきに。

あくまでもオンちゃんの与太咄ですが・・・・・・。

【 参考・』引用 】
毛利勝信 - Wikipedia
毛利勝永 - Wikipedia
関ヶ原の戦い - Wikipedia
大坂の陣 - Wikipedia 
『高知市史跡めぐり』 橋詰延寿著(昭和44年)
『土佐の史跡名勝』 武市佐市郎・著(昭和6年刊)




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