山田平左衛門 - 土佐での始祖は山田去暦、その娘は「おあん」

山田平左衛門(高知市)

[ 高知県高知市筆山 ]


山田平左衛門は、弘化2年(1845)高知城下帯屋町(現・高知市)、知業580石馬廻役の土佐藩士・山田八蔵清粛の子に生まれ、諱は清廉、幼名は山田喜久万と言うがです。

武弁をもって知られ、乾退助(板垣退助)らと武力討幕を唱え、慶応4年(1868)伏見の戦いには小隊司令として従軍し戊辰戦争では東北の役にも従軍し抜群の武勲をあげたそうながです。

明治6年(1873)征韓論に敗れて高知に帰り、板垣退助や片岡健吉らと立志社の設立に参加しちょります。

明治10年(1877)西南戦争の際に、土佐藩挙兵を陰謀した嫌疑によって禁獄1年の刑を受け、出獄後の明治14年(1881)片岡健吉に代わって立志社の第2代社長となり、自由民権運動を主導したちょります。

明治31年(1898)、第五回総選挙に立候補し当選し代議士となり、その後、土陽新聞の社長にも推され、人柄は重厚にして果敢、また古武士の風格を兼ね備え人望が厚かったと言う。

明治39年(1906)享年62歳。

墓には、菊水紋の家紋に、 「土居平左衛門之墓」と刻まれちょります。

【 参考・引用 】   『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年) 


この山田平左衛門の直系の先祖は、石田三成の家臣じゃった山田去暦じゃそうです。


山田去暦

能筆家であったらしく、徳川家康が幼少の頃、家康の手習いの師匠を務めた。
やがて石田三成の家臣となり、近江国で知行300石を領して彦根に住した。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こると、石田方の武将として出陣、石田方の本隊が関ヶ原へ移動後は、美濃国大垣城の守備をし田中吉政と戦ったと『おあむ物語』に書かれてるが、田中吉政は大垣城を攻めていないことから実際は佐和山城にいたのではないかという説もある。
しかし、関ヶ原の本戦で石田方の敗北が濃厚となると徳川方に攻囲され籠城戦となる。
城内には、去暦の妻、息子2人、娘らがいた。
落城真近となった籠城中の去暦の家族の元に、徳川方の武将である田中吉政の配下の者より「愈々明日には落城すると思うが山田去暦殿は、かつて家康公の手習い師匠であったので逃げるなら見逃そう」という矢文が届く。
その誘いに乗って夜中に城壁から梯子を下ろし、去暦と家族たちは盥を舟にして濠を渡り城を脱出した。
城を出て逃げる途中、妻が産気づいて女児を出産した。
その後、山内一豊の家臣となっていた近江出身の親族雨森氏康(九太夫)を頼って、1601年(慶長6年)に土佐国へ来住。
去暦の嫡子・山田助丞は馬廻役(上士)として一豊に仕えた。
この一部始終は『おあむ物語』として語られて著名である。

【 参考・引用 】  山田去暦 - Wikipedia


ついでに、山田去暦の娘が、関ヶ原の戦いの際の大垣城での戦闘や城脱出の体験談を書き記した『おあむ(おあん)物語』で有名な「おあむ(おあん)」です。

関ヶ原合戦後、山田去暦は石田光成が滅亡したた浪人になるが、慶長6年(1601)山内一豊に抱えられ父と共に土佐に来て、親族の雨森儀右衛門に嫁いだようですが死別しちょります。

その後は、甥の山田喜助清次に養われ、80余歳で亡くなったそうで、生前に語り残したのが、『おあむ(おあん)物語』ながです。

おあむ物語

子どもあつまりて。おあん様。むかし物がたりなされませといへば。おれが親父は。山田去暦というて。石田治部少輔殿に奉公し。あふみの国ひこ根に居られたが。そのゝち。治部どの御謀反の時。美濃の国おほ垣のしろへこもりて。我々みなみな一所に。御城にゐて。おじやつたが。不思議な事が。おじやつた。
よなよな。九つ時分に。たれともなく。男女三十人ほどのこゑにて。田中兵部どのゝう。田中兵部殿のうと。おめきて。そのあとにて。わつというてなく声が。よなよな。しておじやつた。
おどましや おぞましや。おそろしう。おじやつた。
その後。家康様より。せめ衆。大勢城へむかはれて。いくさが。夜ひるおじやつたの。そのよせ手の大将は。田中兵部殿と申すで。おじやる。いし火矢をうつ時は。しろの近所を触廻りて。おじやつた。それはなぜなりや。石火矢をうてば。櫓もゆるゆるうごき。地もさけるやうに。すさまじいさかいに。気のよわき婦人などは。即時に目をまはして。難義した。それゆゑに。まへかたにふれておいた。其ふれが有ば。ひかりものがして。かみなりの鳴をまつやうな心しておじやつた。
はじめのほどは。いきたこゝちもなく。たゞものおそろしや。こはやと斗。われ人おもふたが。後々は。なんともおじやる物じやない。我々母人も。そのほか。家中の内儀。むすめたちも。みなみな。天守に居て。鉄砲玉を鋳ました。
また。味かたへ。とつた首を。天守へあつめられて。それぞれに。札をつけて。覚えおき。さいさい。くびにおはぐろを付て。おじやる。
それはなぜなりや。むかしは。おはぐろ首は。よき人とて。賞玩した。それ故。しら歯の首は。おはぐろ付て給はれと。たのまれて。おじやつたが。くびもこはいものでは。あらない。その首どもの血くさき中に。寝たことでおじやつた。
ある日。よせ手より。鉄砲うちかけ。最早けふは。城もおち候はんと申す。殊のほか。しろのうちさわいだことで。おじやつた。そのところへ。おとな来て。敵かげなく。しさりました。もはや。おさわぎなされな。しづまり給へといふ所へ。鉄砲玉来りて。われらおとゞ。十四歳になりしものに。あたりて。そのまゝ。ひりひりとして。死でおじやつた。
扨々。むごい事を見て。おじやつたのう。
其日。わが親父のもち口へ。矢ぶみ来りて。去暦事は。家康様御手ならひの御師匠申された。わけのあるものじやほどに。城をのがれたくは。御たすけ有べし。何方へなりとも。おち候へ。路次のわづらひも。候まじ。諸手へ。おほせ置たとの御事で。おじやつた。しろは。翌の日中。せめおとさるゝとて。みなみな。ちからを落して。我等も。明日はうしなはれ候はむと。心ぼそくなつて。おじやつた。
親父ひそかに。天守へまゐられて。此方へ来いとて。母人我等をもつれて。北の塀わきより。はしごをかけて。つり縄にて。下へ釣さげ。さて。たらひに乗て。堀をむかうへ渉りて。おじやつた。その人数は。おやたちふたり。われはと。おとな四人ばかり。其ほか家来は。そのまゝにておじやつた。
城をはなれ。五六町ほど。北へ行し時。母人にはかに。腹いたみて。娘をうみ給ひた。おとな。其まゝ。田の水にて。うぶ湯つかひ。引あげて。つまにつゝみ。はゝ人をば。親父。かたへかけて。あを野が原のかたへ落て。おじやつた。
こはい事で。おじやつたのう。
むかしまつかふ。南無阿弥陀。南無阿弥陀。
又子ども。彦根のはなし。
被レ成よといへば。おれが親父は。知行三百石とりて居られたが。その時分は。軍が多くて何事も不自由な事で。おじやつた。勿論。用意は。めんめんたくはへもあれども。多分。あさ夕雑水をたべて。おじやつた。
おれが兄様は。折々山へ。鉄砲うちに。まゐられた。
其ときに。朝菜飯をかしきて。ひるめしにも。持れた。
その時に。われ等も菜めしをもらうて。たべておじやつたゆゑ。兄様を。さいさいすゝめて。鉄砲うちにいくとあれば。うれしうて。ならなんだ。
さて。衣類もなく。おれが十三の時。手作のはなぞめの帷子一つあるよりほかには。なかりし。そのひとつのかたびらを。十七の年まで着たるによりて。すねが出て。難義にあつた。せめて。すねのかくれるほどの帷子ひとつ。ほしやと。おもふた。此様にむかしは。物事ふ自由な事でおじやつた。
またひる飯などくふといふ事は。夢にもないこと。夜にいり。夜食といふ事も。なかつた。今時の若衆は。衣類のものずき。こゝろをつくし。金をつひやし。食物にいろいろのこのみ事めされる。
沙汰の限なことゝて。又しても。彦根の事をいうて。しかり給ふゆゑ。
後々には。子ども。しこ名を。ひこ根ばゝといひし。今も老人のむかしの事を引て。当世に示すをば。彦根をいふと。俗説にいふは。この人よりはじまりし事なり。それ故。他国のものには通ぜず。御国郷談なり。
右去歴。
土州親類方へ下り浪人土佐、山田喜助。後に蛹也と号す。
おあんは。雨森儀右衛門へ嫁す。
儀右衛門死して後、山田喜助養育せり。
喜助の為には。叔母なり。
寛文年中。よはひ。八十余にして卒す。
予その頃。八九歳にして。右の物がたりを。折々きゝ覚えたり。
誠に。光陰は矢の如しとかや。
正徳の頃は。予すでに。孫どもをあつめて。此もの語して。むかしの事ども。とり集め。世中の費をしめせば。小ざかしき孫どもが。むかしのおあんは彦根ばゝ。いまのぢ様は。ひこねぢいよ。何をおしやるぞ。世は時々じやものをとて。鼻であしらふゆゑ。腹もたてども。後世おそるべし。
又後世いかならむ。まごどもゝ。またおれが孫どもに。さみせられんと。是をせめての勝手にいうて。後はたゞなまいだなまいだ。
より。外にいふべき事なかりし。
右一通。事実殊勝の筆取なり。
誰人の録せるや。未詳。疑らくは。山田氏の覚書なるへし。田中文左衛門、直の所持をかり出し、といふ事しかり。
享保十五年庚戌三月廿七日   谷垣守

 『雑兵物語/おあむ物語』 岩波文庫

【 参考・引用 】   「日本文学学術的電子図書館・おあん物語」


ついでに、もう一つ。
山田去暦が、土佐に近江出身の親族・雨森氏康(九太夫)を頼って来ちょりますが、この雨森氏康(九太夫)も土佐雨森氏の始祖になるがです。

土佐雨森氏(土佐藩)

藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。
磯野氏、赤尾氏、井口氏とあわせて湖北の四家として知られ、室町時代初頭には足利義満の命で後小松天皇の武者所となる。
京極氏が守護職として赴任すると、これに仕えるようになる。
その後、室町時代後期から戦国時代には近江浅井氏に従う。
浅井家にあって、雨森清貞は海北綱親、赤尾清綱とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。
浅井氏滅亡後は各地に離散している。

土佐雨森氏は、浅井家滅亡後に、土佐山内家に仕えた家。
土佐山内藩での雨森家の祖は雨森氏康(九太夫)で、雨森氏元祖雨森三左衛門良治13代良友3男菊若の末である。

山内一豊の土佐入国(1600)に当たり、家臣増強の措置が採られ弟君古匠作(康豊)様のご推薦で採用され、臣従して入国した(600石、旗奉公)島原の乱で土佐藩を代表して陣頭指揮し、敵弾を受け重傷し、土佐に送還中柏島沖で戦死。
氏康の孫(3兄弟)の時、氏春(2男)氏行(3男)の2家に分割され両家は相互交流をしながら、土佐で明治時代まで続いた。

氏康の分家の祖氏行(七三郎・儀右衛門)は、山田おあんの夫である。
山田去暦の娘(山田おあん)が雨森氏行(儀右衛門)に嫁し、その(おあん)の語る内容を記録したものである『おあむ物語』は、中世文学として著名。
また幕末土佐藩・迅衝隊の山田平左衛門は山田去暦の子孫である。

【 参考・引用 】   雨森氏 - Wikipedia



土佐勤王党の擁護者じゃった雨森舌戒も、土佐雨森氏の一族になりますき。

雨森舌戒 - 土佐勤王党の尊皇攘夷に賛同し佐幕派を弾劾 2011-07-28


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment