源希義戦死伝承之地 - 兄・頼朝の挙兵に立ち上がるも平氏に討たれる

源希義戦死伝承之地(南国市)

[ 高知県南国市東崎・鳶ヶ池中学校内 ]


以前、「源希義の鞍掛けの岩」でも御紹介しちょりますが、源希義(みなもと の まれよし)は、源義朝の五男で、鎌倉幕府を開いた源頼朝は同母・兄になるがです。

父・源義朝が「平治の乱」で敗れ、兄・頼朝は伊豆へ、希義は土佐に流され、平家方の平田氏・蓮池氏の監視の下、介良荘(現・高知市介良)に住み土佐冠者と号して成人するがです。

治承4年(1189)8月に兄・頼朝の挙兵に応じ夜須七郎と謀り土佐で挙兵をしようとするがですが、これを知った平家方の蓮池家綱・平田俊遠は源希義討伐に立ち上がるがです。

討伐軍の急を知った源義朝は居城・花熊城を脱出し、夜須七郎行宗を頼って夜須へ逃れる途中、追撃を受け愛馬も失い、現・鳶ヶ池中学校正門北辺りで討ち死にしたと伝わっちょります。

写真は、鳶ヶ池中学校の許可を頂き、立ち入らせていただき撮影しています。

源希義戦死伝承之地(南国市)

花熊城址 - 城主・横山友隆は長宗我部国親に敗れ長宗我部に仕える 2015-02-02
吉良城址 - 源希義の末裔で清和天皇から続く名門・吉良氏の居城跡 2014-04-28
源希義の鞍掛けの岩 - 源義朝の五男で、この地で討たれる 2012-04-15

因みに救援に向かった夜須七郎行宗は、『吾妻鏡』によると現・香南市の野々宮神社の森まで来るも間に合わなかったと知ると海上に逃れ鎌倉の源頼朝の下に馳せ参じ、源希義が討ち死した事を伝えるがです。

知らせを聞いた頼朝は、寿永元年(1182)、源有綱に弟・源希義を殺害した蓮池家綱・平田俊遠ら平家方勢力の掃討を命じ、夜須行宗とともに大軍を統括して土佐に攻め込み、平氏方を討ち果たすがです。

やがて、土佐に於ける平氏の勢いは、次第に衰退していくがです。


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