比江山掃部介妻子の墓 - 元親の家督相続問題に連座して殺害される

比江山掃部介妻子の墓(土佐山田新改)

[ 高知県香美市土佐山田町新改 ]


JR土佐山田駅から北に直線距離で約2Km行った、新改川の右岸に比江山掃部介親興公の妻子を祀る比江山神社があるがです。

比江山掃部介妻子の墓(土佐山田新改)

比江山掃部介妻子の墓(土佐山田新改)

比江山掃部介妻子の墓

掃部介親興は長宗我部元親の従弟で家老職を務めていた。
元親の長男信親が、豊後国の戸次川で戦死したのち世継ぎの問題がおこり、元親は四男盛親を世継ぎにしようとして三男親忠を推す親興、吉良親実等に切腹を命じた。
親興は切腹するとき妻子を新改の松本山勝福寺向ノ坊に隠れさせたが、やがてこれを知られ討手がさし向けられたので、寺僧は主従六人に自害をすすめ、坊の建物に火を放ち、自分も火中に入り自殺したという。
七人の怨霊は「カモンサマの火玉」としておそれられ、「七人みさき」の伝説
は今も里人の間に伝えられている。

土佐山田町教育委員会

【 参考・引用 】  説明板より


比江山掃部介妻子の墓(土佐山田新改)

比江山城主・比江山掃部介親興(ひえやま ちかおき)は、長宗我部国親の弟・国康の二男で長宗我部元親とは従兄弟になる。

因みに、長男は戸波親武(へわ ちかたけ)。

長宗我部国親の弟である長宗我部国康の長男として生まれる。
永禄12年(1569年)、長宗我部元親は、一条軍の戸波城を攻城し落城させた。
親武は元親から戸波城の城主に任ぜられる。
その際、戸波の名字を名乗る。
長宗我部軍の四国平定で武功をあげ、天正12年(1584年)に十河城の城主となったが、羽柴秀吉軍の四国攻めでは、植田城で羽柴秀吉軍を防戦した。
生誕、死没は不明だが、没年に関しては天正17年(1589年)以前ではないかと考えられている。

【 参考・引用 】  戸波親武 - Wikipedia


戸波城跡 - 一条氏家臣・福井玄蕃が城代 2016-03-02

長宗我部元親の跡を継ぐ事になっていた嫡男・長宗我部信親が、豊臣秀吉の九州征伐に出兵し天正14年12月12日(1587)戸次川で戦死する。

長宗我部信親 - 戸次川の戦いで討死 2012-03-25

天正16年(1588)長宗我部元親は岡豊城から高知(大高坂)城に居城を移すが、この後に家督継承問題が勃発するがです。、

長宗我部元親は、四男・盛親を推す家老・久武内蔵助の意見を聞き入れて家督を譲ることに決めるがですが、比江山掃部介親興や吉良親実らが長幼の序を守って三男・津野親忠が序列的にも相応しいと進言する。

吉良親実 - 吉良神社は七人ミサキ伝説の吉良親実が御祭神 2015-08-26
津野親忠 - 家督争いに巻込まれ末、元親に幽閉され弟・盛親が殺害 2015-11-02
久武肥後守昌源 - 長宗我部譜代の家臣で久万城主 2011-05-01

しかし、この諫言で元親の怒りを買って、切腹を命じられるがです。

比江山掃部介親興は高知(大高坂)城下の屋敷で切腹をしちょりますが、家臣に命じ妻子を逃れさせたのが新改の松本山勝福寺向ノ坊と言う。

主従六人と逃れた夫人は、心労のため病の床に伏せてしまったそうです。

見かねた家臣が、近くの医者に診立てさせたがですが、比江山掃部介親興の夫人と知って欲に目が眩み、訴え出たために討手が差し向けられられたと言う。

説明板にゃ、「寺僧は主従六人に自害をすすめ、坊の建物に火を放ち、自分も火中に入り自殺したという」とあるが、他説では「捕らえられ新改河原で斬首された」とも言う。

比江山掃部介妻子の墓(土佐山田新改)

傍に、もしかしたら家臣たちの墓じゃろーか、五輪の塔が並んじょります。

比江山掃部介妻子の墓(土佐山田新改)


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