理春尼 - 片岡茂光の妻で長宗我部国親の妹、菩提を弔い盆踊りを

瑞応寺跡(佐川町瑞応)

[ 高知県高岡郡佐川町瑞応・瑞応寺跡 ]


佐川町のJR西佐川駅から、仁淀川の支流・柳瀬川沿いに北に約4Km程行った山間に、瑞応という戸数約30戸程の小さな集落があり、そこに写真の瑞応寺跡があるがです。

傍の、説明板にゃ下記のようにある。

瑞応の盆踊り(県指定無形文化財)と瑞応寺

瑞応寺は戦国時代の黒岩の豪族片岡茂光の夫人で長宗我部国親(元親の父)の妹が永禄三年相ついで死亡した夫茂光兄国親の菩提を弔うため一五六六(永禄九)年建立。

夫人は理春尼と号して尼となり供養のため盆踊りを奉納以後毎年旧暦七月十六日に瑞応の部落行事として伝承され現在に至っているが昭和六十二年から新暦八月十六日に変更した。

【 参考・引用 】   説明板から抜粋


理春尼の元の名は解らんけんど、長宗我部国親の妹になる人で、当時は本山氏の家臣で、この地域を治めちょったは片岡氏第14代片岡(黒岩)城主・片岡茂光(片岡直光)に嫁いじょります。

因みに、後に長宗我部元親の家臣になる。

何でも、片岡茂光(片岡直光)には既に本山氏の娘が正室に入っちょりましたき、理春尼は側室として嫁いじょりますき、当時の政略結婚でしょうねー。

永禄3年(1560)、夫・片岡茂光(片岡直光)と兄・国親が相次いで病気で亡くなったので、永禄9年(1566)片岡(黒岩)城下西の庄田にあった満福寺を移し堂宇を建て国親の号「瑞応覚世」から瑞応寺と改名し、自らも出家し「理春」と号しちょります。

本山清茂(梅渓)墓 - 長宗我部元親の父・国親の終生最大の宿敵 2016-05-29

理春尼は此の地で約19年暮らし、夫・片岡茂光(片岡直光)と兄・国親の菩提を弔いながら、村人に読み書きを教え仏の道を説いたそうながです。

天正13年(1585)11月17日、年70余歳で亡くなったとか。

理春尼の位牌

掩粧院喜美英理春大姉叔霊 干時天正十三乙酉歳 霜月十七日逝去


現在、瑞応寺跡にゃ、観音堂のみが残っちょっります。

瑞応寺跡(佐川町瑞応)
【 三百五十年祭記念碑 】
瑞応寺跡(佐川町瑞応)
【 掩粧院喜英理春尼 四百年祭記念碑 】

お堂の南側に、「三百五十年祭記念碑」と「掩粧院喜英理春尼 四百年祭記念碑」と刻まれた2つの石碑が建っちょります.。

如何やら、これは永禄9年(1566)に理春尼が瑞応寺を建て、同時に「瑞応の盆踊り」が始まったのを記念した石碑のようですき、もしかしたら今年平成28年 (2016)の盆踊りは「450年」の年にもなるようですねー。

その「瑞応の盆踊り」と言うのは、踊りの起源に附いては他説もあるようじゃけんど、片岡城下で片岡氏の先祖の霊を弔うため代々城下で行われていた行事を、理春尼が夫と兄の菩提の為に瑞応寺創建時から奉納して来た盆踊りじゃそうです。

「450年」とも言う長い歴史の中にゃ、災害や歴代天皇の崩御や太平洋戦争とか、慎んでも然るべき事があったであろうに、一度たりとも盆踊りが途絶えた事が無いとゆうがです。

始まりは、理春尼の夫と兄の菩提じゃけんど、何時しか村人たちにとっても家族(先祖)を大事にすると言う至極当たり前の事がお盆の行事の一つになり、子孫に受け継がれて来ちょるががじゃないろーか・・・・・。

現在、「瑞応の盆踊り」として、高知県の無形文化財に指定されちょります。

【 参考・引用 】 
瑞応の盆踊り
県指定保護無形民俗文化財  -高知県教育委員会文化財課-


瑞応寺跡(佐川町瑞応)

因みに、片岡茂光(片岡直光)と正室との間の子になる片岡光綱は、豊臣秀吉の四国征伐の際、長宗我部元親軍として伊予の金子城主・金子備後守金子元宅の援軍として毛利軍と戦い討ち死にし、理春尼との子・片岡光政は天正14年(1586)九州戸次川の合戦にて討死しちょります。

瑞応寺跡(佐川町瑞応)

写真は、瑞応寺跡の一角にあった沢山の五輪の塔。

何の説明もないけんど、もしかしたら、この中に片岡氏に関わる 人物のお墓があるかもしれません・・・・・合掌して来ました。


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