明石掃部守全登 - 切支丹大名で「大坂夏の陣」では五人衆の一人

明石掃部守全登(高知市五台山)

[ 高知県高知市五台山  ]


ちょっと前に、大阪ノ陣の「大坂城五人衆」または「大坂城七将星」とも称される一人・長宗我部盛親の記事を載せたがですが、やはりNHK大河「真田丸」にも大いに関係するとみえて、記事の掲載後にNHKさんも「長宗我部盛親」役を阿南健治さん、「明石全登」役を小林顕作さんに決まったと発表したねー。

「大坂城五人衆」とは
明石掃部守全登・後藤基次・真田信繁・長宗我部元親・毛利勝永

「大坂城七将星」とは
明石掃部守全登・大野治房・ 木村重成・後藤基次・真田信繁・長宗我部元親・毛利勝永


まずは、明石掃部守全登とは

備前保木城主の明石行雄(景親)の子として生まれた。
生年を知る確実な史料は存在しないが・・・・・備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)であり、銅山経営者、技術統率者の側面を持つ一族である。

行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、天正3年(1575年)9月の浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家に帰属することになった。
行雄は弟の景行と共に、直家とその子の秀家に仕えて天正16年(1588年)に諸大夫(従五位下)、4万石の知行までになった。行雄の嫡子・全登も行雄が存命中の文禄5年(1597年)4月以前にその跡を継いで、和気郡大俣城(大股城)の城主・家老となったが、領国経営には携わっていない。

慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。
当初、3万3,110石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。

慶長5年(1600年)、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵すると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、石田方の西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。
(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。
宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。
全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。

西軍敗走の際に黒田長政に遭遇したという記述がある。
なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に三成、秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。

戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。

宇喜多氏が没落し浪人となった全登は、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。
中でも、如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が全登を匿ったとされている。
如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。
ただしこの時期の消息については諸説ある。

慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると信仰上の問題で豊臣方として参陣した。
翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。
後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。
この戦いで全登は負傷した。
天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。

その後の消息は不明である。

【 参考・引用 】   明石全登 - Wikipedia


実は、この、「明石全登」は土佐にも関連があるがです。

そんな訳で今回はNHK大河「真田丸」の【土佐関連第2段】として、「明石全登」を記載いたします。

えっ、土佐関連第2段と言う事は、「他にも誰か居るが?」とお思いの方もおるろー。

実は、まだ数人関連人物がおりますき、またおって記載していきます・・・・・。


話は、「明石全登」に戻って、写真のお墓は高知市の五台山にあり、墓石にゃ「明石掃部守全登公 夫妻墓所之碑」と刻まれ、、写真の自然石の墓碑を挟んで前後に2基のお墓が並んじょります。

明石掃部守全登(高知市五台山)

明石掃部守全登公ハ豊臣方属シタ大名デ大阪夏ノ陣ニ敗レ土佐国現香美郡香北町ニ落チテ来タ
家族ハ香北町ニ残シ身ハ山内藩ノ家老小倉政平公ヲ訪ネテ山内藩ニ匿(かくま)ワレ系図ニハ所在不明トシテ天寿ヲ全(まっと)ウ・・・・・

【 参考・引用 】   墓碑裏面より


この墓碑は、昭和47年(1972)に御子孫の方によって建てられちょります。

それまでは、この自然石の墓碑はなかったようですが、墓碑が建った昭和47年より20年前に書かれた『五台山史』にも、「明石全登公夫妻之墓」の事が記されちょります。

明石掃部守重の墓

・・・石を積んだ二個の墓あり長江の人は明石掃部夫婦の墓だと云い又閑入様の墓だと云う処からみれば掃部の兄閑入斎の墓だろうとも云われている。
(中略)
西洋史では明石家を熱心なキリスト教として伝え 或いは(宇喜多)秀家の義兄弟とも云い又従兄弟とも云っている。
教名はヨハネ、彼は幼年時代に洗礼を受けたものらしい。
守重は関ヶ原の役に宇喜多麾下の英雄として盛名を唱われた。
西洋史では彼は勇敢に戦ったが裏切り者(小早川秀秋)のために接戦中孤立に陥った。
其の当時の武士の概念としては最早や之(もはやこれ)までと切腹すべき所であったが切支丹(キリシタン)の思想を持っていた彼は乱軍の中に挺身しては自滅の覚悟をきめたが偶然黒田長政に会い降伏を進められたので感謝し降伏した。
一時黒田家庇護の下にあったが彼の信仰(キリスト教)が余りにも熱烈であったが為に長く留まることが出来ず老母と二人の子供を携えて苦しい生活をしていた。
然し何処(いずこ)に住んでいたかは解らない。
所が大阪夏の陣には蹶起(決起)して西軍に加わり畿内の切支丹と共に、十字架や、キリスト或いは聖ヤコブ像のついた六族の旗を押し立てて抜群の戦功を立てたと云われている。
然し歴史に残る如く大坂の役は西軍の全滅に帰し大阪落城の後盛重は又もや先の切支丹の概念によって自殺することもなく再び野に下り小倉少輔と元来親交があったので密かに連絡をとり彼を頼って遥々(はるばる)と土佐に長岡郡五台山の小倉家の門を訪い隠居宅の長屋に住し後絶海離れ屋に身を寄せ三年後病死して小倉家墓地の近くに埋葬されたとのことである。
現今は石のみで墓石の無いのは徳川の切支丹排斥の思想を憚(はばか)られて作られたのであろう。
現在長江の人々は閑入様の墓と称して居り・・・・・。

【 参考・引用 】  『五台山史』 大野康雄・著 (昭和27年)


また 『高知県人名事典』にゃ下記のようにある。

明石掃部守重

(中略)
ただ、土佐の家系伝承では、次のように土佐来住説がある。
香美郡在所村府内(現・香美市)の明石家に伝わる系図に、掃部守重の動を記するものがある。

これによると、現和元年5月7日(大阪城)落城の折、兄の閑入とともに土佐に落ち来り、槇山郡庄谷祖(物部村)上和久保に住居。
同村公文某の養子となり下ノ田の土地を開墾し黄金仏を神体となす天王宮を祭って住み着いたとある。
また兄・閑入は五台山大島に移ったと伝えられる。

(中略)
同村には明石姓を名乗るもの8件あり(1999年当時)、本家の邸内に明石掃部の墓地と称される数個の石塊を積んだ土葬墓と、石造摩利子天王を祭る小祠が建っている。
さらに五台山には里人が「カンニュウさま」と呼ぶ兄・閑入の墓碑と称せられるものがある。

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社 (1999)


真実は解らんけんど、『五台山史』と『高知県人名事典』の記述からすると、この墓所は「明石掃部守全登」ではのうて、兄とされる閑入のお墓と見るべきかなとは思いますが・・・・・。



明石掃部守全登(香美市香北町府内)

[ 高知県香美市香北町府内  ]


次に、『高知県人名事典』にもある、現・香北町府内の明石本家邸内の「明石掃部守全登」墓をご紹介しちょきます。

上の写真の墓碑は、昭和52年に明石一族の皆さんによって建てられちょります。

明石掃部守全登(香美市香北町府内)

この石を積み上げただけのお墓が、「明石掃部守全登」のお墓として守り祀られちょります。

明石掃部守全登(香美市香北町府内)

石造摩利子天王を祭る小祠。

大阪夏の陣で敗れた明石掃部守全登が落ち延びた先に関しては諸説あり、ここもその一つですが、何の根拠も無くして伝承なりは成り立ちませんき、明石掃部守全登一族に関わる誰かしらが土佐に落ち延びて来たんじゃないがでしょうか。

ただ此処、香北町府内と高知市五台山に明石全登に関わるお墓が2つもあると言う事は、どちらかが明石掃部守全登のお墓じゃと、土佐人の一人としては信じたいですねー。


最後に、五台山の「明石掃部守全登公 夫妻墓所」とも「兄・閑入墓」とも言われちゅう墓所に関連して、ちっっくと気になっちゅう事を。

閑入(号)が明石掃部守全登の兄じゃとしたら、如何して父・行雄の跡を継ぎ明石家を継いでいないのか調べたけんど、兄と思しき人物が出てこん。

と言う事で、明石一族の人物ではあるろうけんど、「閑入」とは誰の事かは解らんかったがです。

もうひとつ、これはもしかしたら当方の勝手な思い込みだけで、明石掃部守全登とは全く関係ないのかも知れません事を前置きしちょきますが、「明石全登公夫妻之墓」から、粗水平方向西側に十数m程外れた場所に、やはり自然石を積み上げただけの六墓のお墓があるがです。

明石掃部守全登(高知市五台山)

土佐に逃げて来て、この五台山にまで辿り着いたのが誰なのかは解らんけんど、二人だけと言うのはちょっと不自然な気がするがです。

落ち延びて行く際は、一族の者や家臣たちも同行するケースが多いよねー。

ですきに、明石掃部守全登が土佐に落ち延びて来たのだとしたら、大阪夏の陣で生き延びた一族も随行して来たと考える方が普通じゃないろーか。

もしかしたら、この六墓のお墓は「明石一族」の関係者じゃないかと・・・・・?。


そこでまず、明石掃部守全登のその後に関して見てみると。

死亡説は、徳川方の記録しちゅ書物が多く、『翁物語』・『翁草』・」『徳川実記』・『土屋知貞私記』・『石川家中留書』等がある。

その他の書物じゃと『大坂御陣覚書』や『大坂記』では、三河刈谷藩主・水野勝成家臣・汀三右衛門が討ち取ったと伝え、水野勝成は戦後の論功行賞で「戦功第二」とされ、大和郡山に3万石を加増して6万石となって転封しちょります。

また、『石川家中留書』には、美濃大垣藩の石川忠総が討ち取り、明石掃部守全登が豊臣秀頼から賜わった短刀までも奪い取ったとあるとか。

そんで石川忠総も美濃大垣藩5万石に1万石を加増されて、豊後日田へ移封したとか・・・・・。

本当に、二人が討ち取ったのは明石掃部守全登じゃろーかねー。

一人の人間を、二人が各々討ち取ったと言うのは、単純に考えても矛盾ですろー。

どっちかが、嘘をついてるか、討ち取られたのは明石掃部守全登ではなく、他の明石姓の一族と言う事じゃないかと思うがです。

容するに、大阪夏の陣には他にも明石一族がおったがですから。

一方、生存説が記されちゅう書物にゃ、『大村家譜』・『戸川家譜』・『武家事紀』・『山本豊久私記』、古文書じゃと『常山紀談』・『士談會稿』・『浦上字嘉多記』と『土佐国諸氏系図』があるらしいがです。

じゃー大阪夏の陣に明石軍に居た可能性が高いのは

明石丹後守全延

明石掃部守全登の弟とか・・・。
通称・大和、久兵衛、明石丹後守景行。
叔父(全登の父の弟)の備前岩戸城主・明石三左衛門尉景季の養子となり、兄とともに大阪城に入り明石軍の副将を務めるが、大阪城より脱出して、備前和気で隠棲・・・・・?

明石久蔵宣行

明石景行(明石丹後守全延)の子
大阪夏の陣で討死したとか・・・・・?。

明石守景(『旧記雑録後編五』にある小三郎か?)

明石掃部全登の嫡男とされる。
関ヶ原敗戦後、宣教師となり、切支丹の禁制が厳しくなると、備前・小板屋村に隠れ住んだとか・・・・?

明石内記

明石掃部全登の次男。
大阪城から脱出し、福島正則の家臣・佃又右衛門に匿われ、その後、伊達政宗を頼り仙台へ行くが、寛永15年(1638)密告により捕えられ護送中、宇都宮で死亡したとか・・・・・?。
もう一つの説は、土佐に隠れ住んだとも・・・・・?。

明石重通

明石掃部全登の三男。
大阪夏の陣で、討ち死にとか・・・・・?


上記以外にも、明石一族がいたでしょうけんど、解る範囲で調べたら上記の人物たちがおったがです。

それぞれに討ち死にしたとか、逃れて隠れ住んだとかとされちょりますが、信ぴょう性は如何なんでしょうか?????

何度も書くけんど、明石掃部全登もしくは子供たちを含め明石一族の誰がしかが大阪城から落ち延びて来たとしたとしたら、明石氏の家来たちもも一緒に逃れて来た可能性も絶対に無いとは言えませんきねー。

兎に角、豊臣家の再興の為に戦った人物が大阪夏ノ陣で完璧な敗北を遂げ、徳川を倒す手段やチャンスも無くなって、その後の余生を静かに送ろうとして「閑入」と付けた号じゃとしたら、意味は「閑(暇な時間)入(はいる)」だから、単純に「暇人になった」と、何とも意味深なメッセージにも思えますが・・・・・。

本当の所は解りませんけんど、これも、歴史のミステリーでロマンの一つですき・・・・・・。
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2 Comments

マサムネ さんへ">

マサムネ さんへ  

Re: 明石氏

マサムネ さんへ">

コメントありがとうございます。

2016/06/21 (Tue) 08:17 | マサムネ さんへさん">REPLY |   

マサムネ  

明石氏

興味深い記事ですね。
恐らく明石氏に関する最も充実した記事ではないでしょうか。
出典に当たっていないので真偽不明ですが、下記の記事によれば異国に名を轟かせた吉利支丹武将という史実が浮かび挙がるのかも知れませんね。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-297.html
明治の台湾総督明石氏、国連の明石氏等の先祖という話題も、真偽ではなく尊敬という文脈のように思われます。

2016/06/20 (Mon) 21:40 | REPLY |   

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