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宮田節斎 - 土佐勤王党に127番目に加盟・野根山二十三志士の一人

宮田節斎生家付近 (春野町)

[ 高知県高知市春野町弘岡上  ]


宮田節斎は天保7年(1836)に、吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市春野町)に生まれちょります。

幼い時から、学問を好み医学を学び、嘉永2年(1849)に高岡郡蓮池村正覚寺の住職となっちょります。

が、安政3年(1856)に何があったのかは分からんけんど、職を失って、安藝郡伊尾木村(現・安芸市)に追放になり、安田村の医師・宮田謙次に仕え更に医術を学ぶ傍ら、同村の儒学者・高松淳蔵に就き經史を学ぶがです。

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土佐勤王党にゃこの頃に加盟しちょるものと思われますが、127番目の血盟同志になっちょるがです。

その後、罪を許されて一度は長岡郡大津村(現・南国市)で医者を開業するけんど、再び安田村に戻り、医師・宮田謙次の養子となるがです。

文久3年(1863)の八月十八日の政変で、土佐勤王党の弾圧が始まり、武市瑞山や多くの土佐勤王党員が投獄され、元治元年(1864)6月に大石弥太郎らが藩庁に嘆願書を提出するけんど、受け入れられんかったがです。

そして同年7月26日に、殆どが藩校・田野学館や高松順蔵に学んだメンバーになるけんど、清岡道之助ら23名が野根山街道の岩佐番所に武装して屯集し、武市瑞山の解放と藩政改革を訴えたけんど、結局、叶わず、阿波国に逃れるが逃走に失敗し、阿波藩によって藩庁に引き渡され、一切の取り調べもないままま、23名は奈半利川河原で斬首されたがです。

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宮田節斎も23人の一人で、29歳じゃった。

宮田節斎

時に佛(仏)に入り醫(医)に志し 時に儒に学び 輕躁常(常日頃、軽はずみに騒ぐ事もなく)の如きは 宮田節斎也
節斎 諱(いみな)は致信(むねのぶ)
元と 吾川郡弘岡村の人
或は曰く 真宗某寺住職某の産なりと
或は曰く 農民實道なる者の二子なりと 
思ふに實道は即ち某寺住職の事なるべ巳
節斎 幼にして文字を好む
弘化二年同村安並正知に漢学を修む 
嘉永二年土佐郡一宮村 醫師(医師)三宮浦造に就き醫学(医学)を学ぶ
後 二年 高岡郡蓮池村正覚寺の住職と爲(なり) 大圓と號(号)す
安政三年故ありて職を失し
安藝郡伊尾木村に追放せらる
是に於て志を醫(医)に専にし
安田村醫師(医師)宮田謙次に従ひて 其の術を研究す
又同村儒学者高松淳蔵に就き經史を学ぶ
同六年罪を免せられ長岡郡大津村に移り醫業(医を生業に)を開く
幾くも復(再び)安田村に来り
宮田謙次の養子と爲(な)る
節斎人と爲(ひとなりは) 軽佻頗る(少しも軽はずみな事もなく)機智に富む
巧辯能く談じ(話術がうまく話し) 往々人を喩す
而も其の養父に仕ふるや孝順にして(養父を大事にして) 友人と交わりて信あり(信望があった)
元治元年七月同郷の士 柏原禛吉 柏原省三 近藤次郎太郎 宮田頼吉 岡松恵之助 豊永斧馬等と事を謀り
田野村清岡道之助を首と爲し
岩佐○(岩佐番所)に據廰に歎願(嘆願)する所あり
事敗れて同盟二十三人と共に斬首せられる
年二十七 子なし
原謙信 其の後を継ぐ
謙信死して子鼎之を継ぐ
節斎 志佛(こころざし仏)に在らずして醫(医)に在り
醫(医)に在らずして儒に在り然(しか)り
而(しか)して其の要を得る者也
夫れ機智陥り易く 巧辯行に○はれ難し
而(しか)して 彼れ能く正を踏み 義に殉じ 世の僞を飾り 虚を怙る者と○然趣を異にす
則ち其の時として佛時として醫時として儒○化常なきものの如しと雖(いえど)も 其の常とする所 盖し在るあり
嗚呼是れ其の節斎たる所以○

【 出典・参考引用 】   『二十三士』 中野浩気・ 著 明治40年


写真の場所は、宮田節斎が生まれ育った吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市春野町)の、生家付近と思われる風景ながです。

【 参考・引用 】  
『春野文化財シリーズ・第5集 弘岡地区の神母と寺院跡』
春野町教育委員会・刊 昭和55年(1980)




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