本山清茂(梅渓)墓 - 長宗我部元親の父・国親の終生最大の宿敵

本山清茂(梅渓)墓(佐川)

[ 高知県吾川郡いの町枝川  ]


今回は本山清茂(梅渓)の墓地への標識のみで、実際の墓地には辿り着く事が出来ず、御墓の写真はありません。

本山梅渓または梅慶は通り名で、名は清茂・茂宗・左近太夫と言い、土佐七守護の一人・本山養明の子として、永正5年(1508)に生まれちょります。

永正4年(1507)室町幕府の管領で事実上の最高権力者で半将軍とも呼ばれ、丹波・摂津・土佐守護を務めた第12代細川京兆家当主・細川政元が暗殺されると、此の事件を発端に、事実上最後となった土佐の守護代・細川政益ら一門、配下豪族らが土佐を離れたため土佐は一気に群雄割拠の蠢く戦国時代に突入して行くがです。

細川頼益 - 細川氏一族遠州家四代目当主にして土佐守護代家始祖 2015-03-16

永正5年(1508)本山清茂(茂宗)の父本山城主・本山養明が総大将となり、楠目城主・山田氏、吉良城主・吉良氏、蓮池城主・大平氏の連合軍は、岡豊城主・長宗我部兼序(元親の祖父)を攻めるがです。

長宗我部兼序は一子・千雄丸(後の国親)を幡多中村の一条氏の元に逃がし、岡豊城も落城し敗死しちょります。

国史跡・岡豊城跡 - 戦国武将「長宗我部」氏の居城跡 2009-08-07
伝長宗我部氏一族之墓 - 歴代の墓と伝わる 2011-08-01

本山養明は子・清茂(茂宗)と2代に渡って、土佐中平を支配下に置くべく高知平野に南進して、築城年代は定かじゃないけんど本山清茂(茂宗)の時代の大永年間(1521~1527)頃に現在の高知市の西に朝倉城を築き拠点とし、長浜・浦戸など土佐中央部に領土を拡張し本山氏の全盛期を迎えるがです。

朝倉城址 - 朝倉 2009-02-03

天文5年(1536)、共に長宗我部兼序を攻めた吉良城主・吉良宜忠の子・宜経が、周防国から禅僧・南村梅軒を招くと、本山清茂(梅渓)は吉良宜経と共に土佐南学の基礎となった儒学(朱子学)を学だと言う。

南学発祥の地 2009-10-10

天文8年(1539)吉良宜経の死去と共に、師の南村梅軒も土佐を離れる事になり、惜別れの念から頭髪を剃り入道となると、南村梅軒は土佐を去るにあたって本山清茂(茂宗)に「梅」の一字をとり「梅渓」の号を送ったと言う。

本山清茂(茂宗)は、師に賜わった「梅渓」の号を師の形見として終生大事にし「梅慶」ともしたという。

因みに、高知市の鏡川上流部にある本山氏の菩提寺・宗安禅寺に祀られている本山梅渓の位牌の法号は「浄江院前豊洲太守梅慶宗春居士」となっちょうそうです。


宗安禅寺 2008-10-05


しかしこの間に、永正15年(1518)幡多中村の一条氏に匿まわれ育った千雄丸は、元服して国親と名を改めると、一条氏の仲立ちで旧領の岡豊城に帰城し、これ以後、長宗我部国親も次第に周辺を支配下に治めて行き、やがて浦戸湾を挟んでの本山・長宗我部両氏が対峙するようになり、一触即発の状態になっちょたがです。

種崎城址 -  浦戸の本山氏に対抗して長宗我部国親によって築かれた 2015-01-07

そこで長宗我部国親は、香宗我部親秀に嫁がせていた娘の於能を親秀から盗み出し、本山梅渓の子・茂辰の妻に送る事で長宗我部・本山氏両家の縁組をするがです。

いくら親のした事と言えども、「単に人攫い」のような犯罪行為ですき、娘にしたら、たまらんろー。

「お父ちゃん、ええ加減にしてや・・・・・」との声が聞こえそうな・・・・・。

その後、本山清茂(梅渓)は吉良氏を滅ぼし、一条氏に降った蓮池城も手中にし、西は仁淀川周辺、東は長宗我部との境界ラインとなる一宮~浦戸ラインの西側、南は春野全域を支配し、天文24年(1555年)本山梅渓は朝倉城で48歳で病死しちょります。

吉良城址 - 源希義の末裔で清和天皇から続く名門・吉良氏の居城跡 2014-04-28
蓮池城主大平氏累代の墓所 - 土佐一条氏によって土佐大平氏は滅ぶ 2015-11-27

本山梅渓の死後、本山茂辰は朝倉城に移るが、長宗我部国親との均衡が崩れるのは、本山梅渓の死後5年後の事じゃった。

八代八幡宮 - 本山茂辰の氏神さん 2011-11-05

戦国の世の習いと言え犠牲になって両者の間で翻弄されたのは本山氏に嫁いだ娘で、対立を避けるための縁組と言うのは表向きで、長宗我部国親の本心は「本山氏打倒」の為の軍備を蓄える時間稼ぎじゃったと思うがです。

長宗我部国親には、所詮、父・兼序を殺された敵(かたき)であり、終生宿敵でしかなかったでしょうから・・・・・。

永禄3年(1560)長宗我部国親の岡豊城からの種崎城に向かっていた兵糧船を、本山氏の支城・潮江城の城兵が襲撃して奪ったという謀略を企てるがです。

潮江城址 - 本山氏を破った長宗我部軍の手に落ち森孝頼が城主に 2013-12-16

この謀略事件が発端になり、両者に溝が生じ、やがて衝突が始まるがです。

長宗我部国親は初陣を飾った子・元親を従え長浜城を襲い、戸の本にて両者は衝突し、激戦の末に本山軍は浦戸城に退却するが、やがて浦戸城をも捨て朝倉城に撤退する。

戸の本古戦場跡 - 長宗我部元親初陣 2009-10-15
長宗我部元親初陣の像 - 若宮八幡宮参道 2008-09-29
浦戸城址 - 長宗我部元親の本城 2013-09-25

それから間もなく、元親に本山氏を討つべく遺言を残し長宗我部国親は岡豊城で死去し、国親の喪が明けると、後を継いだ長宗我部元親は、朝倉城の本山茂辰を討つべく立ち上るがです。

さる程に覚世は、岡豊に帰りた給ひ・・・・・(中略)、臨終に及びしかば、弥三郎(長宗我部元親の幼名)を呼びて

我病命令にせまりぬ。
本山は怨敵の張本なれば、報讐の志深しといえども、時至らずして打過ぎぬ。
然るに今度び彼(本山)が領内に入りて一戦に打ち勝ち、三ヶ城を乗取る事、生前の本望、死後の思出なり。
されば我為には、本山を討つより外に供養なし。
我死せば、一と七日の間は、世法に随ひて、汝が心に任すべし。
夫過れば、喪服を脱ぎて甲冑にかへ、軍議を専にすべし。
此の旨堅く心得よ・・・・

『土佐物語』より

【 参考・引用 】  『長宗我部』 長宗我部友親・著 (2010)


兜木神社 - 本山・長宗我部が戦った朝倉合戦の戦死者を弔った神社 2014-10-06

【 参考・引用 】
『土佐の墓 その三』  山本泰三・著 (1991)
『日本合戦騒動叢書 元親記』 泉 淳・著 (1994) 
『高知県人名事典』 高知新聞社 (1999)
『土佐戦国時代 本山城物語』  畠山権治・著 (2010)
本山城 (土佐国) - Wikipedia




【 後記 】

今から5~6年程前になりますが、何度か周辺の山をたっくった(探し回る)のですが、ついに分からず教育委員会に「お墓」への道順を問い合わせした所、「お墓のある場所は私有地のため、所有者に御迷惑がかかりますので、お教え出来ません」との回答でした。

記念物史跡 伝 本山清茂(梅渓)の墓地
○へ○○メートル (画像処理して黒くマスキングした部分)


その後、写真の標識を見付け、記載されている「○へ○○メートル」と言う場所に行ってみたのですが民家に突き当たり、結局あきらめた次第です。

と言う事ですので、現時点でも、実際に御墓には参拝は出来ていません。


此の記事を書くにあたってネット検索していたら、いの町のHPに下記のようにありました。

※こちらは私有地のため、見学には特別な許可が必要です。


伝本山清茂「梅溪」の墓地 | 町指定文化財 | いの町役場
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