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川谷銀太郎 - 理不尽な堺事件の処置で処刑を免れるが恩赦前に病死

川谷銀太郎碑(香南市)

[ 高知県香南市香我美町山北  ]


香南市香我美町山北の山北公民館の前の一角に、堺事件の関係者で処刑を助命された川谷銀太郎の碑が建っちょります。

この碑は昭和52年(1977)12月に、山北長寿会の皆さんによって建てられちょります。

碑の裏面にゃ郷土史家・橋詰延寿先生の詩が刻まれちょります。

川谷銀太郎碑(香南市)

名は万代に  橋詰延寿詩

明治元年きさらぎの 十と五日のひるさがり
土佐藩守備の堺浦 佛兵不法の上陸だ

條約無視のこの乱暴 制止も聞かず隊旗まで
奪って逃げる奴輩に 隊長撃てと命令を

怒りは波を血にそめて ボートは沖に逃げてゆく
佛艦長は強要す 謝罪切腹二十名

かなし日本は時わるく 恨みをのんで妙国寺
わが香我美野は山北の 姓は川谷銀太郎

十一名の切腹に 佛人ふるえ中止乞う
覚悟を歌に残せしも 助命となりて国がえり

幡多中村は具同の地 九月五日に病死する
若き命は二十六 みたま安かれふるさとに

堺なる 野辺に屍は消りとも 名は万代の ○に残らん



【 参考・引用 】  川谷銀太郎碑より


以下は、堺事件 - Wikipediaより抜粋引用。

戊辰戦争さなかの慶応4年2月15日、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」が堺港に入り港内の測量を行い、この間、士官以下数十名が堺の町に上陸し市内を遊びまわり、近隣住民の苦情を受け八番隊警備隊長箕浦元章(猪之吉)、六番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らが、フランス水兵に帰艦をするようにと告げるが、言葉が通じず争いになる。

その挙句、フランス水兵が土佐藩の隊旗を奪い逃走したので、土佐藩兵側は咄嗟に発砲し、双方の銃撃戦の末、フランス水兵を射殺または、海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。

これに関して、フランス側は何もしないのに、攻撃されたと主張。

フランスは兵士を神戸居留地外人墓地に埋葬し、駐日仏公使レオン・ロッシュは「補償は一層公正であり、少しも厳しくないことはないであろう。私はフランスと皇帝の名において諸君に誓う。諸君の死の報復は、今後われわれ、わが戦友、わが市民が、諸君の犠牲になったような残虐から免れると希望できる方法で行われるであろう」と、復讐を誓った弔辞を読み上げる。

当時は、イギリス・フランス等の欧米列強、それにロシアの南下と、日本の周囲には軍事的脅威や内政干渉の思惑が渦巻いており、外交政策に於いて軟弱な明治政府はフランス側の要求をすべて受け入れ、賠償金15万ドルと関係者の処罰をする事と決定する。

ただ、岩倉具視や三条実美らは、フランスの要求は無理難題が多く、要求通り土佐藩隊士を処罰すると国内世論が再び攘夷に傾くのを恐れ、処罰される者の数を減らすように要求し、フランス側と交渉の結果、隊長以下二十人を処罰する事を決め、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官以外の16名を誰にするのかは、籤(くじ)で決められたと言う。

その結果、以下20名が処刑される事と決まる。

切腹させられた土佐藩隊士

箕浦猪之吉元章(25歳)
西村佐平次氏同(24歳)
池上弥三吉光則(38歳)
大石甚吉良信(35歳)
杉本広五郎義長(34歳)
勝賀瀬三六稠迅(28歳)
山本哲助利雄(28歳)
森本茂吉重政(39歳)
北代堅助正勝(36歳)
稲田貫之丞楯成(28歳)
柳瀬常七義好(26歳)


実際に処刑された11名の内、不運にも7名は 籤(くじ)で、命を断たれた事になる。

処刑執行中、フランス側の中止要求で助命された土佐藩隊士

橋詰愛平有道
川谷銀太郎重政(恩赦直前の1868年9月5日病死)
金田時治直政
竹内民五郎都栄
岡崎栄兵衛重明
土居八之助盛義
横田辰五郎正輝
垣内徳太郎義行
武内弥三郎栄久


川谷銀太郎重政も、この20名の一人じゃったがです。

処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流と決まる。

彼らは、皆口々に「我々は国のために刀を抜いた者だ。仏人の訴えで縛に就き、死罪を免ぜられ無罪となり帰国したのに、このうえ流罪とは納得できない」と不平を述べた。

土佐藩側は改めて朝廷の沙汰書を示し「ご処置は気の毒だが、枉げて承知してほしい。流罪といっても長期ではない」などと説得してようやく了解を得た。こうして、袴帯刀を許され駕籠を用いるという破格の処遇で入田へ向かったと言う。

流罪の地で、 川谷銀太郎・土居八之助・横田辰五郎の3人は「時疫(はやり病)」とありますき、何らかの伝染病じゃろーか発熱を伴う病にかかり、土居八之助・横田辰五郎は快復するも、川谷銀太郎は病死したと言う。 

川谷銀太郎が病死して2ヶ月程して、明治天皇即位の恩赦で残った8名はれぞれ故郷に帰っちょりますが、特赦を受けたとは言え、名誉までは回復される事はなく、兵士とは並みの兵卒のままで士分取扱いの沙汰はなかったそうです。

流罪となった故郷遠く離れた地に一人眠る川谷銀太郎も、恩赦を受けた8名も、結果的には理不尽な外交圧力によって一方的な罪を着せられたままですき、無念じゃったと思います・・・・・。


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