谷秦山邸跡 - 土佐南学を再興しその学問は垣守、真潮へ受け継ぐ

谷秦山邸跡(土佐山田町)

[ 高知県香美市土佐山田町秦山町  ]



谷秦山邸跡(土佐山田町)

土佐山田町指定 史跡 谷秦山邸跡

(昭和三十九年十月二十七日指定)

谷秦山が元禄十三年(1700)三十八歳で山田に移り、五十六歳で没するまで十九年間移住し、私塾を開いて講義した邸跡と推定される。
中央の碑は昭和十二年に建てられ、三面に秦山作の三編の七行詩が刻まれ、日時計が置かれている。

平成三年三月三十日
土佐山田町教育委員会

【 参考・引用 】  説明板より


秦山は号で、名は重遠、通称丹三郎と言う、儒学者です。

40歳の時、土佐藩第5代藩主・山内豊房に召されて、一時期高知城下廿代町に仮屋敷を構え、藩士に『日本書記神代巻』を講じたが、一年で職を辞し再びこの地に戻り、私塾を開き講義したそうながです。

秦山が山田に戻っても、60名程の門人たちが遠く高知城下から歩いて塾に通い、講義を受けそうです。

碑には、「暑熱」、「仲秋」、「甲午除夜」の七行詩が刻まれちょります。

『暑熱』 元禄10年(1697)作
「北極星が地平線より33度の高さにある。ここは北緯33度の地であるから、夏の暑さは日本の中でも格別だ(中略)」。

『仲秋』 元禄13年(1700)作
「仲秋の満月に照らされた鏡野(山田)には、夜露が光って花のように美しく、十五夜の月の光は私に幽玄さを感じさせてくれる。・・・・・.清らかな月と共に、いつまでも今のように心静かに暮らしたいものだ」

『甲午除夜』  宝永4年(1707)土佐藩第6代藩主・山内豊隆と藩主の座をを争った深尾氏を教授した責により、自宅に謹慎させられた時に詠んだ漢詩。
「冤罪が許されていないまま8年が過ぎてしまった。花咲く春を迎え、雪降る冬を見送りながら年月の流れの速さにただ驚くばかりである。・・・・・.私は大昔から浩然と開けている天地のような広い心持ちでいよう」

【 参考・引用 】  
広報かみ 平成25年8月号 市民のひろば 香美市探訪記 
第49回 谷秦山邸跡より抜粋



上記の藩主の座をを争ったと書かれているのは土佐藩重臣で佐川第4代領主・深尾重方の事です。

佐川第4代領主・深尾重方

深尾重次の子として生まれる。
寛文12年(1672年)、重次が早世する。
元禄2年(1689年)、祖父重照の死去により家督を相続する。
元禄2年(1689年)に藩内の高名な儒学者である谷秦山を佐川に招いて家臣に講義を受けさせ、元禄8年(1695年)に伊藤東涯門下の儒学者江田成章を儒臣として登用するなど、学問を奨励した。
元禄13年(1700年)、藩主山内豊房家督相続の御礼言上の際に、将軍徳川綱吉に拝謁する。
宝永3年(1706年)、藩主豊房の病が重篤な時、誤りを伝え聞いてこれを信じ、藩主の死の前日も平常の行動を取ったため、これを咎められて職を免ぜられ、かつ待遇は平家老に准ぜられた。
嗣子繁峯が職を継ぎ、重方は領内鷺州に蟄居する。
藩の処置の過酷さに家臣一同大いに騒いだが、重方の懇撫によって事なきを得た。
以来屏居26年、1731年(享保16年)3月24日没。
60歳。

【 参考・引用 】  深尾重方 - Wikipedia



土佐藩第6代藩主・山内豊隆

1673年(延宝元年)11月16日、山内氏の分家である武蔵指扇山内氏(新橋山内氏)の当主・山内一俊の次男として生まれる。はじめ鳥居氏の養子となって鳥居伊右衛門と名乗っていた。
しかし兄で第5代藩主の豊房に継嗣が無かったため、1706年(宝永3年)に兄が死去すると、その養子として後を継いだ。
しかし豊隆は無能であり、兄が登用した山内規重や谷秦山、深尾重方などを次々と処罰してゆく。
1707年(宝永4年)10月4日には大地震で1,844人(10月26日時点)の死者を出すという惨事に見舞われた。
このため、地震の救済に務めながら宝永の改革と呼ばれる藩政改革に着手したが効果は無く、1720年(享保5年)4月14日に江戸で死去した。
享年48。

先代からの重臣たちを次々と粛清したことから評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われている。


【 参考・引用 】  山内豊隆 - Wikipedia


また谷秦山は、一時絶えちょった南海朱子学(土佐南学)を再興した事でも知られちょり南学中興の祖と讃えられちょり、その学問は長男の垣守、孫の真潮へと受け継がれ、その国体論は,幕末の勤皇倒幕運動にも大きな影響を与えるがです。

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記念碑の上に何で「日時計」が置かれちゅうかと言うと、天文学も学んじょるがです。

元禄17年(1704)秦山は江戸で、渋川春海から授時暦、貞享暦、里差(経度)等の教えを受けちょります。

[ 授時暦 ]

中国暦の一つで、元の郭守敬・王恂・許衡らによって編纂された太陰太陽暦の暦法。
名称は『書経』尭典の「暦象日月星辰、授時人事」に由来する。
至元18年(1281年)から実施され、明でも大統暦と名を変えられて明の末年(1644年)までの364年間に渡って使用された。

[ 貞享暦 ]

日本で使われていた太陰太陽暦の暦法。
初めて日本人渋川春海の手によって編纂された和暦である。

[ 里差(経度) ]

京都が基準。
宣明暦までは中国の暦をそのまま利用していたが、渋川春海は北京と京都の里差=経度差を考慮して、日本にあわせた大和暦 (貞享暦) を作成した。
貞享暦では北京と京都の里差は5刻 (1日=100刻として、5÷100×24=1.2時間) とされています。
伊能忠敬の作った精密な日本地図である伊能図も、京都西三条台の改暦所が基準とされています。


渋川春海から教えを受けた天文学により、高知城の位置を「北緯三十三度半強」と測定したとされちょる事から「土佐の天文学」の先駆者ともされちょります。

多分そうした経緯もあって、碑の上に「日時計」が置かれちょるものと思われます。

現在の測量でも高知城の経度/緯度は「33.56081/133.53147」ですき、当時の天文学の精度がよくわかります。


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