古沢迂郎 - 土佐勤王党に138番目に加盟

古沢迂郎生誕地(佐川)

[ 高知県高岡郡佐川町甲  ]


古沢迂郎は弘化4年(1847)に佐川・深尾家に代々仕える家臣・古沢南洋の二男に生まれ、初名を光迂、後に滋と名乗っちょります。

兄は、土佐勤王党に134番目に加盟しちゅう岩神主一郎です。

岩神主一郎 - 土佐勤王党に134番目に加盟  2015-03-27

文久2年(1862)15歳の時、上洛し平井収二郎に気に入られ国事に奔走するがですが、文久3年(1863)に平井収二郎は間崎蒼浪、広瀬健太らと藩を勤王へと藩政改革を画策した「青蓮院宮令旨事件」が山内容堂に露見した事で怒りを買い、責を負い切腹するがです。

その年の8月に起こった都から公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放した「八月十八日の政変」が起こると、その影響は土佐にも及び「土佐勤王党の獄」と言われる弾圧が始まり、土佐に帰郷していた古沢迂郎は父、兄と共に蟄居謹慎処分を受け、更に慶応3年(1865)には収監され入牢の身となるがです。

罪が許され出獄したのは、大政奉還が成立した慶応3年(1867)の事ながです。

維新後の明治2年(1869)に,岡本健三郎に誘われ上京し新政府に出仕しちょります。

岡本健三郎 - 坂本龍馬と福井に赴き、由利公正と会う 2013-01-20

明治3年(1870)官命でイギリス留学を命ぜられ、明治6年(1873)に帰国。

征韓論政変で下野した板垣退助の依頼で民撰議院設立建白書を起草し、その後は、板垣退助の参謀として民権運動に挺身活躍の場を広げていくがです。

しかし国家主義に転向し、長州派の品川弥二郎や井上馨らに接近し、明治19年(1986)外務省書記官として官界に転じ、以後、外務省総務局報告課長、内務省参事官、農商務書記官、同参事官、逓信省郵務局長、兼郵便為替貯金局長、兼東京郵便電信学校長、鉄道会議議員などを歴任した後、奈良県知事、石川県知事、山口県知事をも務め、明治37年(1904)貴族院議員に勅選されちょります。

明治44年(1911)、65歳で亡くなっちょります。

【 参考・引用 】  
『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年) 
古沢滋 - Wikipedia




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