長宗我部盛親公慰霊之碑 - 400年忌に遺徳を偲び建てられる

長宗我部盛親公慰霊之碑(長浜・秦神社)

[ 高知県高知市長浜・秦神社  ]


秦神社の拝殿東側に、「長宗我部盛親公慰霊之碑」が建てられちょります。

亡くなられたのは慶長20年5月15日(1615年6月11日)大阪夏の陣の事じゃったがです。

現在、NHK大河「真田丸」が放送されちょり結構好評のようですねー。

ドラマも、大阪冬の陣からクライマックスの「大坂夏の陣」が最大の見所になっていくと思いますが、長宗我部盛親は主人公の真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登と共に「五人衆」と呼ばれた主力部隊の一人ながですき、NHK大河「真田丸」にも大いに関係する武将ながですきな。

長宗我部盛親公慰霊之碑(長浜・秦神社)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。
当初、盛親は徳川家康率いる東軍に付こうとしたとされるが、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれ(徳川方へ送った密使が捕らえられ、連絡が取れなかったとも言われる)、やむなく西軍に参加した。
西軍主力の一角となった盛親は、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らと共に東軍(徳川)本陣背後の南宮山に布陣するが、東軍に寝返っていた毛利の吉川広家が動かなかったため、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊は結果的に動く事が出来ないまま、西軍の負け戦に終わる。

しかたなく、盛親は軍を率いて追撃を振り切り、土佐に逃げ戻り、井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしたするが家臣・久武親直の讒言から兄の津野親忠を殺害した事で徳川家康の怒りを買い、領土没収で改易となる。

牢人となった盛親は京都へ送られ、身一つの謹慎生活を送り、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もある。

慶長19年(1614年)秋、大坂方と徳川方との間が風雲急を告げる中、盛親は豊臣秀頼の招きに応じて僅か6人の従者と共に京都を脱出するが、長宗我部家の再興を願う旧臣や浪人などが集結し、最大の手勢を持つに至り、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登と共に「五人衆」に数えられる主力部隊となった。

大坂の陣が始まり、籠城戦となった冬の陣では豊臣家重臣の木村重成、後藤基次らとともに八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担った。
しかし、大規模な戦闘は発生せず、膠着状態のまま大坂方と幕府方の間に和議が成立する。

慶長20年(1615年)大阪夏の陣では、八尾で長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇し吉田重親は討ち死にし、藤堂隊は勢いに乗じて長宗我部本隊を殲滅しようと攻勢を強めるが、盛親軍の猛反撃を受け藤堂隊の先陣は一気に壊滅し、藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、潰走状態となった。
しかし、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅したため、井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつけ事になり、やむなく大坂城へ撤退した。

翌日の大坂城近郊での最終決戦では大坂城・京橋口の守備に就くが、天王寺・岡山の戦いで大坂方の敗北が決定的になり、「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し再起を図って敗走した。

だが5月11日に京都八幡(京都府八幡市)近くの男山に潜んでいる所を蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられ、その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられ、5月15日京都・六条河原で子女とともに斬首される。
享年41。
これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。

【 参考・引用 】   長宗我部盛親 - Wikipedia


歴史にif・・・(もしも・・・)はないけんど、if・・・(もしも・・・)西軍の長束正家に進路を阻まれる事がなかったら、長宗我部盛親は東軍に付き先勝組になっちょった。

if・・・(もしも・・・)、徳川家康への謝罪の前に、、奸臣(よこしまな家来)として名高い久武内蔵助親直の裏切りさえなかったら、関ヶ原で西軍に加担した事は許されちょったかもしれんがですき・・・・・。

長宗我部盛親は、悲運の武将とも言えるがです。

秦神社(高知市長浜)

大坂城落城400年を迎えた平成27年には、長宗我部盛親公400年忌祭が秦神社で執り行われ、また境内には盛親公の御遺徳を偲び顕彰する有志達により、慰霊碑が建立されました。

【 参考・引用 】   秦神社御由緒




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