新助地蔵(しんす地蔵) - 水に落ちた子供を救うが自分は力尽きる

新助地蔵(春野町)

[ 高知県高知市春野町弘岡上  ]


野中兼山が行った治水工事で、仁淀川の水は春野に流れ込み、弘岡上の小田で東に流れる諸木井水と、南に流れる新川川に分かれちょりますが、分流地点から新川川を南に350m程下った道路の東側に、この新助地蔵は建てられちょります。

長い年月の風化で浮き彫りもよう判らん状態になっちょりますき、ただの石かと見間違うかもしれんけんど、 花立にシバが供えられちょりました。

このお地蔵さんは、昔、川窪村の長者の子供が溺れたのを作男の足の悪い新助さんが飛び込んで助けたけんど、自分は力尽きて亡くなったそうです。

その後に、新助さんを憐れんで、このお地蔵さんが建てられたそうながです。

昔はここに大きな石畳の堰がありました。
川窪〔かわくぼ〕井筋に水を入れるための堰です。
川幅は今の三倍もあり、中程に筏の通り道も造ってあって、流れはここで一だんと急になり、下手はおとなのせいも合うか合わぬかという程の深さになっていました。

元禄の頃、この里に大安並〔おおやすなみ〕と呼ばれていた長者がありました。
安並家はこのほかに東安並、北安並というお大家もあり、どのお家も広い広い田地を持っておりましたので、人びとは『深瀬金持ち、安並地持ち』と言っておりました。
三軒のうちでも大安並家は作男十人も使っている豪農でありました。

この作男の中に少年が一人おりました。
新助といい、年は十五、六、ものを言う時舌がもつれる病気があり、足も片方が少し不自由な少年でありました。

ある夏の日のことでした。
大安並家の一人息子、その時六つか七つでしたが、この堰の近くの道で遊んでいて川に落ちてしまいました。
一緒にいた子ども達も、ただあれよあれよと言うだけでどうすることも出来ませんでした。

その時、一人の男が着物のままでざんぶと川へ飛びこみました。
作男の新助です。
渦に巻かれて浮きつ沈みつしていた安並の子どもを助けて岸に押し上げましたが、足の悪かった新助はここで力尽き、川底に沈んでしまいました。

傷ましい新助の死は人びとの涙をさそいました。
その後だれ言うとなく、この堰を〈しんすの堰〉と言うようになり、このあたりの字〔あざ〕を〈しんす〉と呼ぶようになりました。

やがて人びとはここに小さな石地蔵を建てました。
みんなは『新助地蔵』と呼びいつまでも哀れな新助をしのびました。
慶応三年にもう一つ地蔵さんが建てられました。
今もこの二つの地蔵さんは川窪のゆるの上、曲がり角のところにあって、部落の人びとによって大事に祀られています。

【 参考・引用 】  高知市春野郷土資料館 - はるの昔ばなし 新助地蔵



新助地蔵(春野町)

昔は川窪の方に(写真右方向に)水を分岐させるために大きな石畳の堰があり、川幅も今よりも広く激しい流れの場所じゃったようですが、道路の道幅拡張のため現在では当時の面影は残っちゃーしません。

たぶん、堰から下流に落ちる 水が激流になっちょったがでしょうねー。

そのお話しに出てくる、川窪の豪農・大安並家にも関わる事を。

長宗我部の天正地検帳にも記述があるそうですが、村の中心に川窪屋敷があり川窪神兵衛と言う人が住んじょったそうです。

その子孫に川窪藤右衛門と言う人がいて、この人、儒者・南村梅軒から土佐南学(朱子学)を受け継いだ一人・雪蹊寺の天質和尚に儒学を学び、慶長12年(1612)に屋敷の東に寿宝寺を開基して地区の子弟に学問を教えたそうです。

そこで教育を受けた子弟の子孫たちが、川窪村で深瀬・安並(大安波・中安並・安並・東安並・北安並)・橋本・千頭・田所・川窪家と言った富豪豪農となったそうです。

沢山の蔵が連なり、紺屋・糸屋等が軒を並べ大そう栄ちょった村だったそうですが、今はその面影は感じられません。

また、この川窪は河田小龍にも画を学んだ画家の橋本小湖や、土佐勤王党127番目の血盟同志で野根山二十三志士の一人でもある宮田節斎も生まれ育った場所ながです。

【 参考・引用 】  
『春野文化財シリーズ・第5集 弘岡地区の神母と寺院跡』
春野町教育委員会・刊 昭和55年(1980)




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