春日局 - 幼少期難を逃れ長宗我部元親の許に身寄せたと云う伝承在り

春日局墓(東京都文京区)

[ 東京都文京区湯島4丁目・麟祥院 ]


徳川幕府第2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母として有名な春日局が、幼少期に長宗我部元親を頼って落ち延びて来たと云う伝承がありますので、御紹介を。

卅七 春日局幼時土佐に在り

(前略)
抑春日局本姓は齋藤氏名は御福といふ家世々美濃の豪族にして父は明智日向守光秀の重臣、丹波国、猪口山二萬石の城主齋藤内蔵助利三といひ母は稲葉通明の女なり天正七年を以て生る天正十年四歳の時父利三は明智光秀の反逆に興し山崎の一戦に打負けて近江に逃れしも捕らえられて粟田口で磔殺(はりつけの刑)せらる局兄弟四人あり一家皆此非常の困難に際し四方に離散す(中略)次兄土産右衛門三存並に局の御福等二人は家臣に助けられ竊(ひそ)かに海を越えて四国に渡り此土佐の岡豊に参り當(当)時の太守長曾我部元親の許にぞ身を忍せける

抑此土佐の長曾我部元親と美濃の齋藤家とは如何なる姻縁(いんえん)なりやを尋ぬるに元親の妻女は同国齋藤美濃守政吉の女にして實(実)に内蔵助利三の同母異父の姉なりされば春日局の御福等に取りては元親は正しく其義叔父に當(当)り其諸子の信親親孝等は従兄弟同志の仲なれば此一家破滅の悲運に際し海山遠く都の消息も打越へて落人の隠れ家には倔(屈)強なる此遠国をたどりきて慈愛深き骨肉に共身を託するは尤至當(当)の事たりしならん

記録の伝ふる所によれば此時家臣等密に局なる御福と其兄三存の二人を引連れ大阪より便船をもて四国に渡らんとせしが豊臣家の追補を恐れて諸児を米俵に忍ばせ竊(ひそ)かに船中に隠し置きしに果して捕吏の急追あり船中に踏込み槍を以て一々米俵を突き試せしに幸に彼等の潜める俵には中らざりしかば家臣もやっと安堵の思をなし虎口の難を逃れて一先づ伊豫(伊予)の国にぞつきにける
(中略)
偖(さて)御福等の土佐に着せし頃は元親は丁度岡豊に在り兵を四国に繰出し武名隱れなく居城岡豊の繁昌は四隣に並なき際なりき想へば彼の八幡の森の茂き木影や国分の川の清き砂原は實(実)に春日局等が可憐なる童時の遊場なりしならん但其兄なる三存当時通称土産右衛門は如何なる故りけん岡豊の西二里朝倉の里に住みしとぞ聞へし 
(中略)
案ずるに春日局の御福が土佐にありしは天正十年より慶長の初方にかけ大凡(おおよそ)十餘(余)年のなりしならん當(当)時は早婚の世なれば十七八歳にして已(すで)に上京し稲葉家に入婚せしものと思はる抑も春日局の土佐国に居りしは正史上に何等の輕(軽)重なき事なるも此の如き有名の女傑にして其幼時を此国(土佐)に○り八幡社の森、国分川の流いずれも其搖藍地たるの面影を傳(伝)ふるは郷土地理歴史に於いて珍しき興味ある事實(実)なりといふを得べし

【 参考・引用 】  『南国遺事』 寺石正路・著 大正5年(1916)


郷土史家・寺石正路先生の書かれた『南国遺事』 の中の、上記記事は、大坂の陣(元和元年)から土佐藩第2代藩主・山内忠義の死去(寛文4年)までの記録を綴った『治代普顕記』が出典のようです。

『治代普顕記』 (和古書)


春日局/斎藤福、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。
「春日局」とは朝廷から賜った称号である。

父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)、養父は稲葉重通。
稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。
養子に堀田正俊。
江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。

【 参考・引用 】  春日局 - Wikipedia


写真は、東京都文京区の麟祥院にある春日局の墓所ながです。

春日局墓(東京都文京区)
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