村田馬太郎 - 土佐勤王党に97番目に加盟

村田角吾(香南市)

[ 高知県香南市吉川 ]


中央の墓石が村田馬太郎(帰本)夫妻の墓で、手前左は土佐勤王党の獄で投獄され斬首刑に処せられた弟の村田忠三郎の墓です。

村田馬太郎は天保9年に香美郡古川村(現・吉川村)の郷士・村田新十郎の長男として生まれ、名を有尚、のち帰本と言う。

始め医術を学び医を業とし、安政5年(1858)津藩(現・三重県津市)に遊学する事3年、斎藤抽堂(さいとう せつどう)に入門しちょります。

ちなみに斎藤抽堂は、津藩士の子として江戸藩邸内に生まれた人で、幕末の朱子学者ながです。

拙堂自身は一貫した朱子学者であったが、西洋の文物でも優れているものはそれを認めて、和漢洋の折衷によってより良いものにしていくこと(和洋折衷)を唱えた。
そのため、有能な藩士を江戸に送り、洋学や西洋兵術を学ばせ、種痘術の渡来に際しては有造館に種痘館を開き、率先して藩内に施行し、洋式軍制を取り入れるなどの藩政改革にも関わった。
安政2年(1855年)、幕府の命で江戸に赴き、将軍徳川家定に拝謁した。
幕府は拙堂を儒官に抜擢しようとしたが、主君の元を去り難しと拙堂はこれを辞退している。
安政6年(1859年)、致仕した。
頼山陽や大塩平八郎、渡辺崋山、吉田松陰など、多数の儒者、文人との交流ももった。
弟子に三島中洲、河井継之助らがいる。

【 参考・引用 】  斎藤拙堂 - Wikipedia


村田馬太郎の父が武市瑞山と親しく、馬太郎自身は間崎滄浪(哲馬)とも親しかったと言う。

こうした背景もあるがでしょうが、弟の村田忠三郎に遅れて、親類の村田角吾貞宜共に土佐勤王党に97番目に加盟し、土佐勤王党血名書にゃ「村田右馬太郎」となっちょります。

殉節之碑 - 武市瑞山 2009-02-26
間崎滄浪(哲馬)邸跡 - 青蓮院宮令旨事件で投獄 2010-04-19
村田忠三郎顕彰碑 - 土佐勤王党に47番目に加盟 2011-07-21
村田角吾 - 土佐勤王党に98番目に加盟 2016-02-12

文久2年(1862)の元旦、島村衛吉の紹介状を持って安芸の家老・五藤内蔵助に面会を求めた。
五藤内蔵助は病臥中のため、その臣・吉田直樹に吉田東洋の非を挙げ、勤王党員の憤懣を伝えた。
五藤からは病気回復後に意見を聞こうとの返事を得たと言う。
4月4日弘光明之助と共に発途、潜行して伏見に至り、薩摩藩の本田弥右衛門に情勢を聞き、注進のため帰国して報告するが、脱関のゆえに追い込みとなる。

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社


島村衛吉墓と碑 - 土佐勤王党弾圧で拷問により獄中死 2010-10-26

元治元年(1864)土佐勤王党への弾圧で党首の武市瑞山はじめ仲間たちへの審問に対する抗議ならびに寛大な処置を求めて建言に参加しちょります。

慶応3年(1867)香美郡村村作配役、また文館教授。

さらに兵隊半隊指引などに従事。

明治6年(1873)36歳で亡くなっちょります。


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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