アーネスト・サトウ - イカルス号事件の際、英公使館通訳として須崎へ

須崎港(須崎市)
須崎港(須崎市)

[ 高知県須崎市  ]


現在の須崎港と古い絵葉書に映る須崎港ながですが、然程変わっちょるようには見えんかもしれんけんど、写真右側の角谷地区にゃ鳥形山から産出された石灰を積み出す日鉄鉱業の専用埠頭が出来、湾入り口にゃに東防波堤と西防波堤の全長が約1.4Kmに及ぶ津波防波堤が出来ちょります。

龍馬やアーネスト・サトウらが来た幕末の須崎湾にゃなかった光景ながです。

サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。
イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。
日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。

【 参考・引用 】  アーネスト・サトウ - Wikipedia


この須崎にアーネスト・サトウが来たのは慶応3年(1867)8月6日の事。

その年の7月に長崎でイギリス人水夫が殺害されるというイカルス号事件があり、その容疑者が海援隊士じゃとして、土佐藩と交渉(と言うか一種の脅しのような状況じゃったでしょう)のためにイギリス公使・パークスを乗せた英艦・バジリスク号が入港するがじゃけんど、この時に通訳として同行したががアーネスト・サトウじゃったがです。

この時、須崎湾にゃ英軍艦バジリスク号・幕艦・回天丸、土佐藩船・夕顔丸、それに坂本龍馬の乗った薩摩藩船・三邦丸が入港しちょったと言うき、ビックリ仰天で大慌てした町民も居ったろーけんど、見たこともないような数の軍艦や帆船が停泊する光景は嘸かし壮観な眺めじゃったろーねー。

須崎港(須崎市)
[ 四国霊場別格5番札所・大善寺より ]

事件の結末は、濡れ衣で海援隊士は何にも関与しちゃーせん事が判明するがです。

またアーネスト・サトウは山内容堂の招きで8月11日に須崎から浦戸に入り、九反田の開成館で会見しちょります。

須崎に来た事や、高知城下に来た事等、アーネスト・サトーの回想録『一外交官の見た明治維新(上・下)』(岩波文庫)にも記述されちょります。

【 参考・引用 】  『一外交官の見た明治維新(上・下)』(岩波文庫)


土佐藩砲台跡 - 国・史跡(須崎市) 2010-10-24
須崎湾 - 坂本龍馬、生涯で二度須崎湾に入港 2010-10-25
開成門 - 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝充も門をくぐる 2010-09-01


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