名護神社 - 伝承では清少納言を祀る

名護神社(南国市稲生)

[ 高知県南国市稲生 ]


稲生郵便局の前の路地を入っていくと、ちょっと雰囲気のある神社が鎮座しちょります。

神社の名は「名護神社」と言い、伝承じゃと清少納言を祀る神社じゃとか・・・・・。

【おなご様】について

明治初期に書かれた山内藩政を調べた上げた書物に『皆山集』があり、それによると、
《(南国市の稲生に)”なご谷”というところあり、清少納言の終の棲家であったことから、なご谷といへり。
又、亡き後「名護大明神」として祀られている。》と記述されています。

* 部落名”中谷”=”なご谷”が”中谷”になったとおもわれます。

* 『世俗物語』にも≪清少納言は、老の跡には四国のあたりに落ちふれてありし》と書かれています。

【 参考・引用 】  神社にあった説明書の文書より


『皆山集』ちゅうのは、土佐藩士じゃった松野尾章行が、維新後に土佐の旧事・逸話を集め編修した書物ながです。

清少納言は紫式部と並ぶ平安時代の歌人で女流作家で、紫式部は『源氏物語』を、清少納言は『枕草子』を執筆し、当時の二大文学として有名です。

この「名護神社」は、その清少納言に関わる神社じゃと古くから伝承され伝えられちょったと、『皆山集』に記録されちょった訳ながです。

天延2年(974年)、父・元輔の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。
なお、『枕草子』における船旅の描写は、単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。
この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。

天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光(965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長(982年 - 1034年)を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。
ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。のち、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた。

一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。
博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。
藤原実方(? - 998年)、藤原斉信(967年 - 1035年)、藤原行成(972年 - 1027年)、源宣方(? - 998年)、源経房(969年 - 1023年)との親交が諸資料から窺える。
ことに実方との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。

清少納言の名が今日まであまねく知られているのは、残した随筆『枕草子』によるところが大きい。
『枕草子』には、「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。

長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。
その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。
晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。

没年は不明で、墓所が各地に伝承される。

【 参考・引用 】  清少納言 - Wikipedia


あくまでも伝承じゃけんど、これも歴史のロマンですねー。


因みに、 『皆山集』に関しては、平成18年(2006)じゃったと思うけんど『土佐二十四万石博』の時に、貴重な貴重な『皆山集』の原本を紛失すると言う大失態を起こしたき、覚えちゅう土佐人も多いですろー。

紛失したのは皆山集全116巻の内の71巻とか。

ゴミとして処分されたとしても不自然じゃし、もしや貴重な書物と知った誰かが隠し金庫にでもと・・・・・。

紛失事件の顛末はどうなったのか解らんけんど、何ともお粗末で、不可解なお話ながです。

ネットを調べたら様ような書き込みもありますねー・・・・・。

下記は参考に

皆山集紛失で損害請求へ 2007年05月13日
このお寒い図書館ニュースから、我々はせめて多くの教訓を学ばなければならない、シリーズ 2006年 08月 27日




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