大野豊前守墓 - 応仁の乱を逃れて田野荘に来た都人とか

大野豊前守墓(安芸郡田野町)

[ 高知県安芸郡田野町・田野八幡宮本殿後 ]


大野豊前守の墓

大野豊前守については不明なことが多いが十六世紀の初め、応仁の乱を避けた貴族が、田野荘に来て大野の東端金毘羅山に城をかまえ附近を領して大野豊前守と称したと伝承されている。

この石堂は屋根型の石で覆われ正面の扉には十六葉の菊の紋章、その下部と横に蓮の浮き彫りがある。

【 参考・引用 】  田野町の説明板より



写真には収めちょりはしませんが、扉の格子の間から見た感じじゃ、皇室の菊花紋に似た、十六八重表菊紋のように見えます。

鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。
その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が皇室の紋として定着した(「十六弁菊は南朝の紋で、三十二弁菊(十六弁八重菊)は北朝(および現皇室)の紋である」との説明も見かけるが根拠不明である)。


都を逃れて来た大野豊前守とは、どんな人物じゃったがでしょうかねー・・・・・。

大野氏は、その後、長宗我部氏に支配下になったとか。

大野豊前守墓(安芸郡田野町)

応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。
8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領の細川勝元と室町幕府侍所所司(頭人)の山名持豊(出家して山名宗全)ら有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱とも呼ばれる。

【 参考・引用 】  応仁の乱 - Wikipedia




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