津呂港 - 「野中兼山先生開鑿之室戸港」と「紀貫之朝臣泊舟之碑」

「野中兼山先生開鑿之室戸港」と「紀貫之朝臣泊舟之碑」(室戸市)

[ 高知県室戸市室戸岬町 ]


室戸岬から国道55号線を室戸市方面に約2.5Km程の所に、津呂港(室戸岬漁港)があるがですが、そこの岬屯所前バス停傍に、写真の「野中兼山先生開鑿之室戸港」と「紀貫之朝臣泊舟之碑」と言う2つの碑が建っちょります。

「野中兼山先生開鑿之室戸港」と「紀貫之朝臣泊舟之碑」(室戸市)

この津呂港も室津港と同様に野中兼山によって、整備された掘り込み港ながです。

室津港も大変な工事じゃったようですが、ここも同様に難工事じゃったがです。

昔は、この辺りは良好の港が無く、周辺を航行中に海が荒れると、一端、浦戸に戻るか、無理をして室戸岬を廻り込み北に十二里行った甲浦港に避難するしかなかった。

藩主山内忠義も参勤交代のと途上に悪天候に遭遇し暫く室戸浮津に船を寄せ辛うじて遭難の難を逃れた次第ながです。

因みに四国霊場第25番札所・津照寺 の『楫取地蔵の由来』にゃ、「慶長7年秋の頃山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難いたされた時、何処からともなく大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。」ともあるき、海の難所じゃったがです。

津照寺 - 四国霊場第二十五番札所 2015-01-23

元和4年(1618)に最勝坊(小笠原一學)と言う人が港の開鑿に執りかかるがですがなかなか進展がなく、その後、野中兼山によって工事が引き継がれ、兼山の命で一木権兵衛らが任に就くがです。

一木権兵衛 - 難工事・室津港開鑿を成し人柱として海神に身を捧げる  2014-09-01

一老漁夫あり告げて曰く「港口を爲(なす)べき所に三つの巌(いわ)あり。一を鰺岩(あじいわ)といひ長さ十二歩、横七歩、高さ七丈、二を名斧岩(おのいわ)といひ長さ五歩、横二歩半、高さ八尺、三を鬼牙岩(おにがいわ?)といひ長四歩、横三歩、高さ七尺餘(余)りあり。古来港口に於て難破するもの皆之による、若(も)し之を去らざれば假令港を穿つとも則ち後日の患は依然たらん」と、
彼れ之を頷きしも三岩水涯を距ること百二歩餘(余)にして堤塞を支ふべき岩石なく、又徒に堤を海中に築くも急濤惣にして之を破壊せんことを恐る。

巳にして兼山張扇の要ありて衆勢之に歸して支へらるるの象を按じ、惟へらく此形以て洪怒涛水上於いて似て濤に堪(た)ふべしと・・・・・


港の入口に大きな岩礁が3っあり、これがある為に難破した船が多かったようで、野中兼山が工事方法として考えたのが扇の要の例えにあるように、岩礁を扇状にに取り囲み外水圧を防ぐ方法じゃったがです。

乃ち洋中に樞點を定め是より扇骨を派して水涯に達せしめんとし、先ず松の大木を四列に立つること櫛の歯の如くし、其間に巨木細木を縦横の交差し而して土俵七萬有餘俵を以て行間を塡(うず)め、中間には土を充して以て潮水の浸入を防ぐ。


そして、日々数千人の役夫を使って人海戦術で、堤内の海水を汲みだし、大鉄槌や鑿(のみ)で砕いたそうじゃけんど、岩盤が固く工具は直ぐに禿(ちび)果てて使えなくなり山のようになったと言う。

士某、普請奉行市(一)木権兵衛を見て嘲つて曰く「御苦労千萬、数日の忠勤、しかし大池をお掘ある、定めて此池には鯉や鮒を養ふにはよかるべし」と、権兵衛憤を発し神に誓って曰く「吾不肖にして此役を任す、若し神我を助けて此役を竣ることを得しめなば我を謹んで一身を捧げんと、翌日凪に起き衆を励まして岩石を奮撃せしむ。・・・・・

【 参考・引用 】  『野中兼山』 辻重忠・著 (明治44年)


一木権兵衛 - 難工事・室津港開鑿を成し人柱として海神に身を捧げる 2014-09-01

「野中兼山先生開鑿之室戸港」と「紀貫之朝臣泊舟之碑」(室戸市)

もうひとつの「紀貫之朝臣泊舟之碑」は、土佐日記にある紀貫之が土佐国司の任を終え都に帰る途中シケにあい、避難したのが此処じゃとして建てられちょります。

梅香の井戸 - 室津泊りの時、紀貫之が命名したと伝わる 2014-12-01

「野中兼山先生開鑿之室戸港」と「紀貫之朝臣泊舟之碑」(室戸市)

水面から高さがあるのは、過去何度かの南海トラフ地震の度に隆起を繰り返しちょるためです。


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