石灰頭司徳右衛門君記念碑 - 阿波方式の石灰焼きの製造方法を伝授

石灰頭司徳右衛門記念碑(南国市)

[ 高知県南国市稲生 ]


鉢伏山の南麓、下田川の傍にこの碑は建っちょります。

徳右衛門さんちゅう人は、阿波の国の人じゃそうですが、此の方、文化年間(1804~17)に四国巡礼の旅に出たがやけんど、旅の途中に下田で行き倒れになったがやと。

現在もこの辺りは良質な石灰を産する地じゃけんど、その時に世話になった地元の人々に、阿波方式の石灰焼きの方法を教えたがじゃそうで、御蔭で土佐じゃ新技術よる石灰製造が多いに発展したがじゃそうです。

碑の題字は永野修身。

知らない人のために永野修身の事を簡単に記述しちょきます。

明治13年(1880) 土佐藩上士・永野春吉の四男として生まれる。
日本の海軍軍人、教育者。
最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。
第24代連合艦隊司令長官。
第38代海軍大臣。
第16代軍令部総長。
海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。
昭和22年(1947)A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。
千葉工業大学の創設者。

永野は大の親米派で、駐米勤務時代には「軍人でなければ、(アメリカに)住み続けたい」と話していたという。
愛犬家であり、園芸を趣味とし、郷土の英雄・坂本龍馬を深く尊敬していた。
哲学や科学などをはじめとする教養学や人格を重んじ、物事を学ぶ時には物の真理から学ぶように家族には説いていた。
永野は公明正大な人物と知られ、太平洋戦争がはじまるとそれまで永野家内で使われていたパパ、ママなどの英語類を一切使うのを禁じたと永野の息女が証言している。
また、永野は親類でも特別扱いは­せず、親族は一般の兵士と同様、特攻隊(回天部隊)などに配属された。
また、海軍内でも責任感が強くケジメを大切にする人物として知られ、大戦後に連合軍が一方的に敗者を裁いたいわゆる極東軍事裁判(東京裁判)においても他の多くの被告達が自らの弁明をする中、一切を語らず、戦争を防止できなかった責任は自らにもあるとして敗戦の将らしく潔く裁判を受け入れたが、この永野の態度に感銘を受けたアメリカの将官が永野に賛辞を送ったエピソードが残されている。

【 参考・引用 】   永野修身 - Wikipediaより抜粋


とA級戦犯と言われるけんど、そんな議論はするつもりはなく、其の前に「一人の土佐人」としての、人柄を御紹介したまでです。

生誕地は現・高知市桜井町の新堀川付近で、今でも 「永野海軍大将誕生之地」と言う碑が建っちょります。

石灰頭司徳右衛門記念碑(南国市)

撰文は土佐郷土史家・寺石正路先生です。

話は石灰に戻って、石灰って土壌改良などに使用されるけんど、稲作の肥料としても使われちょった。

この碑のある稲生の西(鉢伏山南西麓)の高知市介良の白水・岩屋辺りが高知県のニ期作の発祥の地じゃそうですが、寛永年間(1789-1803)には石灰が使われよったと記録があるそうですが、その後、一般的に県内にニ期作が普及したのも、徳右衛門さんが土佐に伝えた石灰製造の新技術による品質向上と生産量が増大した事にもよるとも言われちょります。


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