山崎正善碑 - 明治政府を揺るがしたノルマントン号事故の犠牲者

ノルマントン号事件の碑(須崎市)

[ 高知県須崎市南古市町 ]


この碑は、須崎八幡宮の道路を挟んで南に建てられちょります。

ただ「山崎正善」言うても、誰もしらんろーけんど・・・・・。

ノルマントン号事件の碑(須崎市)

始めに海難事故に関して。

ノルマントン号事件の碑

明治19年10月、横浜発神戸行きの英国汽船ノルマントン号が紀州沖を通過のおり難破した。
船長以下26人の外国人船員全員はボートで脱出したが、日本人乗客23人全員が水死した。
そのなかに、新土居(現津野町)の山崎正善も乗船していた。
裁判では、幕末に締結した不平等条約によって船長は無罪となり、裁判の不当性に国民は憤慨した。
政府は条約改正に向けて諸外国と交渉を重ねて条約改正に成功し、日本が近代国家へと発展していくきっかけとなる。
この碑は、条約改正を祝って海に近いこの場所に建てられたものと思われる。

【 参考・引用 】  説明板より


「ノルマントン号事件」ちゅうのは、条約改正(不平等条約撤廃)問題の引き金になった事故で、歴史の教科書にも登場する、開国日本を揺るがした大事件ながです。

沈没事故

1886年(明治19年)10月24日午後8時ごろ、横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマントン号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破、座礁沈没した。
その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員26名は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護された。
ところが日本人乗客25名は、一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した。

【 参考・引用 】  ノルマントン号事件 - Wikipedia


そもそも、条約の不平等は安政5年(1858)に日本とアメリカは、日米修好通商条約を結ぶけんど、幕府は在留外国人等が起こした場合の揉め事に関しては治外法権としてアメリカ側に領事裁判権があると条約で認めた事から始まっちょります。

幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五か国条約)。
但し、日米修好通商条約の第二条は「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定されており、これは日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合、アメリカが仲介することを宣言したもので、他の四カ国との条約にはこの文言はなかった。

【 参考・引用 】  日米修好通商条約 - Wikipedia


問題は、このノルマントン号事件じゃ、ボートで脱出したイギリス人の船長ら乗組員は無事じゃったけんど、乗船しちょった日本人は誰一人の死体も発見できんかったそうです。

おそらく事故当時、日本人乗客は全員船倉に閉じ込められたような状態に置かれちょっのではないかと言われちょります。

事件の裁判権はイギリスにあり、イギリス領事官で海難審判が行われ、船長以下全員に無罪判決下されるがです。

領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、不平等条約によって定められた治外法権のひとつで、在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り裁判する権利を言う。



この判決で、国民は「日本人乗客を見棄てられ自分たちだけ助かった」、「差別」だ「蔑視」だと世論が高まり憤慨するがです。

当時の外務大臣・井上馨は、国民の怒りを黙止することができず、内海忠勝兵庫県知事に命じて、船長らを横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴し船長ドレークに有罪判決を下し、禁固刑3か月に処したが、死者への賠償金は支払われなかったそうです。kいこまれ

外務大臣・井上馨は不平等条約改正を求める交渉会議において最後まで反発したイギリスに対し、外国人の裁判には外国人判事を半数以上任用するという妥協案を認めたが、本事件勃発により妥協案に対する反発が強くなり、翌1887年、条約改正会議は無期延期、井上は辞任となった。

【 参考・引用 】  ノルマントン号事件 - Wikipedia


本題の山崎正善さんは、このノルマントン号の海難事故の犠牲者の一人で、高岡郡須崎村(新土居村=現・津野町)の出身者じゃったがです。

郷里の学校で訓導(現行の教育法令でいう教諭と同等の職)に就いちょったけんど、神奈川県巡査をしながら英語の勉強をしよったそうですが、脚気(かっけ)を患い静養のため土佐に帰って来る途中、この事故に巻き込まれ帰らぬ人となったがです。

この碑は、山崎さんを追悼した記念碑で祭主を山内豊章(藤並神社祠官・土佐神社宮司を務める)が行い、碑文の最後の方に明治二十年三月仲旬とある。

因みに、山内豊章の父は、土佐藩第10代藩主・山内豊策の子になる。

なお、この事故から8年後、外国人に絡む紛争問題の審理を行った領事裁判権は撤廃されちょります。

海難事故のあった、和歌山県の潮岬附近は、日本でも有数の難所とされ、此の事件の他にも明治23年(1890)に起きたオスマン帝国(現・トルコ)のエルトゥールル号海難事故でも有名な近辺で、潮の流れも速く水深も深く、結局船体の捜索も出来ず、未だに日本人全員海に消えちょります。

結局、捜索にも関わらず正確な沈没場所も不明じゃそうで、慰霊碑は和歌山県那智勝浦の狼煙山に建てたそうです。

未だに、如何して日本人だけ助からんかったのか、日本の海難事故の「ミステリー」ながです。


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