.糺鴨神社 - 京都下鴨神社の糺の森が糺鴨神社の名の由来

糺鴨神社(須崎)

[ 高知県高知市須崎市東糺町 ]


4~5年前まで、須崎小学校の校庭の北側に昭和40年頃に建てられたコンクリート造りの鉄筋3階建ての旧校舎があったがですが、現在、オンちゃんの通った学び舎は跡かたもなく取り壊され、跡地には須崎保育園が出来ちょりますが、その裏山の麓に糺鴨神社はあるがです。

何十年振りかに訪れた神社周辺は、子供の頃の遊び場やった雰囲気とも可也変わっちょりました。

糺鴨神社(須崎)

子供の頃は、こんな説明板もなかったし、糺鴨神社と言う名前より「天神さん」と言う呼び名で呼びよった・・・・・。

糺鴨神社

創建年代不詳、天正15年(1587年)の長曽我部地検帳に「糺宮」と記録されている。
京都加茂上社、下社を勧請した。
下鴨社の境内地は糺の森と言われ、この森に由来して糺鴨社と言う。
また天神社を合祭しているところから天神社でも親しまれている。
梅画の名人と言われ、宝永津波溺死の塚の碑文で有名な古谷竹原も厚く崇敬した神社で、古谷家の寄進した刀や絵馬が伝わる。
昔は、多ノ郷賀茂神社より御神幸があった。・・・・・

【 参考・引用 】  説明板より抜粋



寳永津浪溺死之塚 - 碑文は古屋竹原、願主は発生寺住職・智隆和尚 2015-07-28

糺鴨神社(須崎)

その多ノ郷賀茂神社とは

賀茂神社

旧郷社。
由緒:旧郷社。
祭神はが賀茂別雷大神。
賀茂大明神社(土佐州郡志)・賀茂大明神(南路志)とも称した。
御手洗川下流左岸に位置し、東側を中ノ川が流れる。
「南路志」所収の「賀茂大明神勧請之記」では津野氏の祖津野経高の勧請という。
「古文叢」などに所収された当社本地仏裏書に「土州高岡郡津野庄多野郷賀茂本地仏 寿永二年正月 日」とあって、寿永2年以前の創建であることがわかるが、「勘仲記」紙背文書の平安末期と推定される官宣旨案によれば、京都の鴨御祖社(下賀茂社)領の土佐郡潮江荘(現高知市)が地震で陥没したため、その代替えとして康和2年に津野荘が与えられたとあるので(東洋文庫蔵/須崎市史)、その創建の時期を知るうえで手掛りとなろう。
 「南路志」には文安2年銘の鰐口と永享2年銘の懸仏があったことが見え、棟札では永享8年津野之高が屋根の葺替えを、永正5年には津野元実が社殿を再興しており、以後も修造が繰り返された。
(中略)
神社はかつて多ノ郷・須崎(浜町・鍛冶町・新町・原町)・神田・土崎・吾井ノ郷・桑井山の総鎮守であったが、明治元年からは多ノ郷・須崎の産土神となる(須崎市史)。・・・・・

【 参考・引用 】  『角川日本地名大辞典 39 高知県』 昭和61年刊より


京都の鴨御祖社(下賀茂社)領の土佐郡潮江荘が地震で陥没した南海地震の一つとされる康和地震は康和2年正月X4日の記録とあるので、現在の代替地に津野庄が出来たとしたら、賀茂神社の創建は1100年頃になり、糺鴨神社の創建は同じ時期の可能性が高いように思うがですが・・・・・。

また、津野経高が伊予に下ったのが延喜10年(910年)で、延喜10年13年(913年)に土佐国に入ったとされちょりますき、もし津野経高が創建したとすれば、土佐国に入った時の年齢は判らんけんど、単純に津野庄が出来たのは100歳近い事になる。

むしろ、津野経高以降の二代・津野経高、三代・津野国高の頃の創建じゃないかと勝手に想像しちょりますが、もしかしたら津野庄を得る前に、既に津野経高は須崎の多ノ郷を拠点にし賀茂神社も建てちょったがじゃろーか?。

そうじゃないと、『賀茂大明神勧請之記』』に津野氏の祖津野経高の勧請とは記録でされない訳で・・・・・。


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