山地元治生誕地 - 土佐の独眼龍将軍

月ノ瀬橋から見た高知市の北側

[ 高知県高知市越前町 ]


写真左側が「百々越前守邸跡」で、道路を挟んで右側(方角的には西側)が、 山地元治の生れた邸跡じゃそうです。

山地元治誕生地

越前町三十四、三十五番地(旧町名)一帯が邸跡である。
元治は忠七ともいう。
十三歳の時、遊んでいる時、竹で右眼をさした。
或いは柿の木から落ちたともいう。
とにかく一眼を失ったので後には独眼将軍といわれた。・・・・・

【 参考・引用 】  『高知市史跡めぐり』 橋詰延寿・著 (昭和44年)より抜粋


天保12年(1841)に土佐藩馬廻役・150石の山地元恒の長男として生まれ通称を忠七と言うがでして、坂本龍馬より6歳年下になるがですねー。

文久2年(1862)藩主・山内容堂の個小姓となり、小笠原唯八らと周布政之助の暴言による梅屋敷事件に関与しちょります。

梅屋敷事件

文久2年(1863)11月13日、長州の高杉晋作や久坂玄端らが、攘夷の名の元に横浜の外国公使の襲撃を画策するがですが、この計画を知った土佐藩主・山内容堂が長州藩主・毛利元徳(定広)に知らせます。

知らせを受けた長州藩主・毛利元徳(定広)は、襲撃計画を阻止すべく急ぎ説得し、何とか計画を未然に防ぐがです。

その後梅屋敷にての酒宴が開かれ、容堂の使指として派遣されたがが山地忠七・小笠原唯八ら四人の土佐藩士じゃったがですが、この酒宴で酔った長州藩士・周布政之助は、土佐藩主・山口容堂の告げ口で襲撃計画が阻止された事を根に持ち、容堂を誹謗中傷するがです。

何処の藩でも主君を罵倒されたら、頭にくると思うけんど、激昂したのは土佐藩士。

山地忠七らは抜刃して周布政之助を叩き切ろうとするがですが、止めに入った高杉晋作らによって、何とかその場は双方事無きに到るがです。

その後、毛利元徳(定広)は容堂に周布政之助の無礼を詫び、周布政之助を改易にしちょります。

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』にも、此の事件が書かれちょります。


戊辰戦争では迅衝隊七番隊長、胡蝶隊長として東北各地を転戦し、明治元年(1868)大隊長となり、功によって賞典禄150石を授けられちょります。

征韓論争では、板垣や後藤象二郎ら土佐藩出身とともに下野し、板垣等とともに自由民権運動に挺身しようと盟約を結ぶけんど、方針を巡って意見が合わず離脱しちょります。

そんな彼の器量を惜しみ、陸軍に復帰させたがは、谷干城じゃったそうです。

明治10年(1877)3月から10月まで歩兵第4連隊長として西南戦争に出征し、別働第3旅団参謀長として戦傷を受け、後、歩兵第3連隊長や歩兵第12連隊長などを経て、明治14年(1881)陸軍少将として熊本鎮台司令官を務めちょります。

大阪鎮台司令官、歩兵第2旅団長、再度の熊本鎮台司令官を歴任し、明治19年(1886)陸軍中将、第6師団長を経て、第1師団長として日清戦争に出征し、金州や旅順、田庄台などを攻略したそうです。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』の登場人物の一人として描かれちょります。

明治28年(1895年)子爵。

明治30年(1897)山口県防府市三田尻で亡くなっちょります。

享年56歳。

【 参考・引用 】  
『高知県人名事典』 高知新聞社・刊
山地元治 - Wikipedia




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