紀貫之舟出の地碑 - 土佐で亡くした娘の死を悲しみながらの船出

紀貫之舟出の地碑(高知市大津・大津小学校)

[ 高知県高知市大津・大津小学校校門傍 ]


【原文】
二十七日。
大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。
かくあるうちに、京にて生まれたりし女子、国にてにはかに失せにしかば、 このごろの出で立ちいそぎを見れど、何ごとも言はず、京へ帰るに女子のなきのみぞ、悲しび恋ふる。
ある人々もえ堪へず。
この間に、ある人の書きて出だせる歌、 都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
また、あるときには、あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける

【現代訳】
二十七日。
大津から浦戸を目ざして漕ぎ出す。
こうした中でとくに、京で生まれ(て任地に一緒に行っ)た(国司・紀貫之の)女の子が、(任地である土佐の)国で突然死んでしまったので、(国司は)このところの出発の準備を見るけれど、何も言わず、京に帰るのに女の子がいないことばかり、悲しんで(女の子を)恋しく思っている。
その場にいる人々も(気の毒で)がまんすることができない。
こうしている間に、ある人(紀貫之)が書いて出した歌、
都へ帰るのだと思うのに、なんとなくもの悲しいのは、(いっしょに)帰らない人があるからである
また、あるときには、(こんな歌を詠んだ)
(死んでしまった女の子がまだ)生きているものと思って(死んだことを)たびたび忘れては、やはり死んでしまったあの子を、どこにいるのかとたずねてしまうのは悲しいことである

【 参考・引用 】  土佐日記亡児 現代語訳:より大津の箇所を抜粋


紀貫之が、延長8年(930)に土佐守に遷任され承平5年(935)2月 までの約5年間の任務を終え、都に戻る際に船出した大津の船戸が此の地とされちょり、現在の舟入川の北側にある大津小学校の校門脇に碑が建っちょります。

やっと都に戻れると言う事で「喜びもひとしお」であったろうと思うのが普通じゃけんど、『土佐日記』の「大津」の部分に書かれちょるのは、都で生れた幼子と一緒に土佐に来たけんど、一緒に帰ると思っていた娘は亡くなっちょるがです。

亡くした娘に想いを残したまま土佐を離れるのは、如何にも辛くさみしいと言う思いが書かれちょります。

「みやこへと おふもものの悲しきは かえらぬ人の あればなりけり」
「あるものと わすれつつなほなき人を いづらと問ふぞ 悲しかりける」

【 大津の舟戸から船出した時、娘を思い詠んだ歌 】



紀貫之舟出の地碑(高知市大津・大津小学校)

竹島跡碑の傍に建つ説明板より地図を抜粋


史跡・竹島跡 - 浦戸湾七島の一つ 2011-07-07

紀貫之舟出の地碑(高知市大津・大津小学校)

現在は、船戸の碑から舟入川を3Km程下ると国分川と合流し、更に1Km程下ると鏡川と合流して浦戸湾に到るがですが、紀貫之の時代にゃこの周辺まで内海が広がっちょったがです。

下流側に見える山が、古代の鹿児崎に当る鹿児山ながです。


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