古谷竹原先生邸跡 - 須崎の文人で鹿持雅澄や間崎哲馬とも親交を持つ

古谷竹原先生邸跡(須崎)

[ 高知県須崎市西古市町 ]


以前御紹介した、須崎市にある「寳永津浪溺死之塚」の碑文を書いた儒医で画家じゃった古谷竹原の邸跡を示す石碑が、須崎八幡宮の東側の道を北に約150m行った、西古市町の鮮魚店の南の門に建っちょります。

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古谷竹原(ふるや ちくげん)は号で天明8年(1788)に大野見郷竹原(現・中土佐町)の下級藩士・古谷善助の二男に生れ、享和元年(1801)14歳の時に江戸に出て画を学び、文化2年(1805)に病で一度土佐に戻んちょりますが、文化4年(1807)に今度は大阪に出て医術を学び、土佐に戻んちょります。

文政2年(1819)に大坂に上る為便船を求めて須崎に来た際に、門人や書家の下元西州らに須崎に留まるよう説得され、此の地に住むようになり、須崎の文人の中心的な存在にまでなり、藩主の知遇を得てしばしば献納画も書いたようです。

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国学者の鹿持雅澄や、土佐勤王党の血盟同志で青蓮院宮令旨事件で投獄され切腹した間崎哲馬とも親交があったと言う。

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天保12年(1841)実兄・文五郎の籍を出て、須崎村地下浪人に挙げられる郡方先遺方直支配の身分となる。

文久元年(1861)、74歳でみてちょります。

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社・刊




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