山本成之翁碑 - 四国八十八ヶ所第三十番札所・善楽寺の再興に尽力

山本成之翁碑(高知市・一宮)

[ 高知県高知市一宮徳谷  ]


JR土佐一宮駅から東に凡そ160m程行った東側の一段高くなっちゅう山側に、御堂と石碑が建っちょります。

山本成之翁碑(高知市・一宮)

何じゃろーと思うて石碑に近づいて見たら「山本成之翁碑」と刻まれちょりますが、当方心当たりがなく、どんな人じゃったのかと思い碑の裏に廻って見たがですが、台石も高く文字もよう読み取れません。

そんで、取り合えず写真を取って画像を拡大して見てみたら、碑文の中に「田中光顕」の名があったもんですき、改めて撮り直し、家に戻って確認したがです。

『高知県人名事典』にゃ記載がなかったけんど、『土佐の墓』にはありました。

成之は一宮徳谷の人。
師範学校一期生。
明治13年(1880)卒業後一宮小学校に奉職した。
自由民権運動に加わり、条約改正に反対し免職されたが、憲法発布の大赦令で復職した。
後に一宮村長となり、義務教育費国庫支出に尽力し国会で可決された。

【 参考・引用 】  『土佐の墓』 山本泰三・著 (昭和62年) 


山本成之翁碑(高知市・一宮)

ただ「田中光顕」との関係は記載がなかったけんど、碑文にゃ下記のようにあった。

・・・・・父君の意志を継ぎ四国八十八ヶ所第三十番霊場一宮善楽寺の再興を発願し日夜東奔西走、田中光顕、頭山満、国澤新兵衛、国分寺林快田氏等朝野名士の賛同を得、遂に昭和五年二月時の西山宗教局長、鳩山文相を動かし五十年来の宿願を達成した。・・・・・

【 碑文より 】


碑文にゃ、 田中光顕の他に、もう一人聞き覚えのある国澤新兵衛と言う名が刻まれちょりました。

国澤新兵衛は、南満州鉄道に関わりのある人じゃけんど、それ以外に維新後は洋画家として坂本龍馬の肖像画を残し、幕末の戊辰戦争じゃ土佐藩船・夕顔丸の船将として箱館戦争中の函館を往復した国沢新九郎の実弟ながです。

国沢新九郎生誕地 - 土佐藩船「夕顔丸」の艦長 2010-05-22
国澤新九郎 - 土佐藩船「夕顔丸」の船長で坂本龍馬も乗船 2013-06-29

田中光顕は、土佐勤王党員で薩長同盟の成立に貢献し、中岡慎太郎亡き後の陸援隊を率い、明治維新後は天皇親政派の宮廷政治家として活躍しちょります。

田中光顕墓 - 中岡慎太郎亡き後の陸援隊を率いた一人 2010-11-24

と言う訳で「山本成之」さんは、現在の四国八十八ヶ所第三十番霊場・善楽寺の再興に尽力した人じゃったがです。

実は、善楽寺は明治維新の廃仏毀釈で廃寺になり、その際、御本尊の阿弥陀如来は、高知市内の安楽寺に移された事で、明治8年(1875)に安楽寺が三十番札所となった。

碑文にもあるように昭和5年に善楽寺が再興されるけんど御本尊が安楽寺にある為、此の事が本来の三十番じゃった善楽寺と安楽寺との間で三十番札所を巡る論争が起こり、しばらく三十番札所は2箇所あったがです。

問題が解決したがは平成6年(1994)1月1日の事で、善楽寺は三十番札所に戻り、安楽寺は奥の院となったがです。

因みに、高知市内に残る安楽寺を指す遍路石は、まだ安楽寺が三十番札所じゃった頃の名残ながです。

へんろ石 6 - 中司茂兵衛と言う、凄い人の碑じゃった 2009-12-01
へんろ石 - 13 中務茂兵衛 「壹百度目」の添句標石 2012-12-06
へんろ石 - 16 中務茂兵衛 「壱百七十四度目」・世良修蔵は従兄弟 2013-06-13
へんろ石 - 17 中務茂兵衛 「弐百三十度目」 2013-07-22

山本成之翁碑(高知市・一宮)

碑の前の道は、参勤交代の際に通った道が続いちょりますが、写真の道の先が二十九番・国分寺、手前側が三十番札所・善楽寺ながですが、残念ながら御遍路さんが二十九番・国分寺から歩いて来ると、石碑は右側背後の山側になり御堂に隠れますき、振り返らない限り気付く人はおらんでしょうー・・・・・。


石碑題額には、下記のようにある。

必有居主人におくる
世の中にほこらぬ山のすがたかな 常に高ねを雲に隠し

題字は、田中光顕の書です。


MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment