野中太内助継 - 新おこぜ組の一人で東征を拒否し切腹を命ぜられる

野中太内助継墓

[ 高知県高知市塩屋崎・筆山南面  ]


野中兼山一族の墓所の記事で、同じ墓所内に眠っちょる野中太内助継のお墓です。

野中兼山 - 野中兼山一族の墓所 2015-10-13

野中兼山の血縁関係にない野中兼山の実祖父・野中良平の兄弟・野中逐継の子孫の家系の人ながでして、五人扶持切符15石小姓組・野中三八持継の甥になる永井新平の二男で、養子となって野中家を継いじょります。

吉田東洋の私塾少林塾の師弟たちが中心となった新おこぜ組と呼ばれたメンバーの一人で、東洋暗殺後も東洋の思想を堅持し、小目付役として土佐勤王党の獄の際にも従事しちょり、剛胆な気風の人じゃったようです。

慶応元年(1865)に僅か一ヶ月程の短い期間じゃけんど大目付に付き、馬廻格に列しちょります。

慶応4年(1869)土佐藩は倒幕のため新政府より幕府方の高松・松山藩征討が下され、前衛隊司令として東征の指令が下りるがですが、長野中太内ら三十三名の同志(連署組とも言う)が建白書を藩主に奉じ、出兵拒否をするがです。

山内容堂から直接出兵の説得を受けるけんど、吉田東洋の思想を貫き「佐幕」を訴え従軍拒否を貫き通したため、切腹を申しつけられ41歳で亡くなっちょります。

【 参考・引用 】   『高知県人名事典』 高知新聞社・刊


・・・・・公(容堂)に謁し断然佐幕の説を執て出兵の不可を説く公懌(よろこ)びず遂に国元(土佐)に逐下す命ず明治元年(慶応4年)五月二十八日南会所に於いて割腹を命ぜられ死す・・・・・

【 出典 】   『續 土佐偉人傅』  寺石正路・著 (大正12年)




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