津野親忠 - 家督争いに巻込まれ末、元親に幽閉され弟・盛親が殺害

津野親忠墓(香美市)
 
[ 高知県香美市土佐山田町神通寺・津野神社  ]


津野孫次郎親忠の眠る津野神社 は、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の立田駅のすぐ東を南北に走る県道31号前浜-植野線を北上して行くと、左側に福船簡易郵便局があるがですが、其のすぐ近くにある児童養護施設・博愛園を目標にして行ったら判りやすいと思います。

児童養護施設・博愛園の北側の道を東に進み、付き当たり右に行くと、こんもりとした木立の中に神社が建っちょり、脇に「高知県史跡 津野親忠墓」の碑も建っちょります。

因みに余談じゃけんど、児童養護施設・博愛園は坂本龍馬の姪・岡上菊栄さんに所縁の場所ですき。

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津野親忠墓(香美市)

津野親忠は長宗我部元親の三男で、元親が姫野々城主・津野勝興の養子として親忠を送り込み津野氏を継いじょります。

経緯は津野勝興の父・津野定勝の時代になると、長宗我部氏の勢力が増したため家臣たちは長宗我部氏に付き従うようにした方が良いとするけんど当主の津野勝興は是を拒んだため、津野勝興を伊予に追放し子の津野勝興を当主にするがです。

そんで親忠を津野勝興の養子に迎える事で、津野氏は長宗我部に付き従う事になるがです。

その後、長宗我部元親は阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い一度は四国をほぼ平定し四国の覇者となるけんど、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国の役で敗れ、津野親忠は人質として豊臣秀吉のもとへ送られるがです。

この時に親しくなったのが、藤堂高虎ながです。

天正14年(1586)、豊臣秀吉の九州征伐の一つの戦い戸次川の戦いで長男・信親が戦死した事で、長宗我部氏の家督相続争いを巡る御家騒動が起こり、これに巻き込まれるがです。

二男・香川親和(途中・結核で死去)や三男・津野親忠を推す家臣たちと、四男・長宗我部盛親を押すグループに分かれた争いになるがです。

その結果三男・津野親忠を立てようと諫言(いさめること)した吉良親實や比江山親興は長宗我部元親の怒りに会い切腹させられ、家督は四男・長宗我部盛親に決まるがです。

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しかし家督が決まった後も、家臣・久武親直の讒言等で、長宗我部元親は家督を奪い返そうとするのではとの疑いを抱き続け、慶長4年(1599)岩村の雪巌寺(のちに孝山寺と改める)に幽閉するがです。

久武内蔵助親直の父や兄は立派な武士じゃったけんど、兄の久武内蔵助親信は「弟の親直は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と元親に言い残して逝った程の邪(よこしま)な人物じゃったようですが、それでも元親は信頼しちょったがですから、兄・親信亡き後は家督を継がせ佐川城主にしちょります。

「飼い犬に手を噛まれる(信用していた者から、裏切られたり、 害を加えられたりすること)」の例えにあるように、長宗我部家の滅亡の原因の種を撒いたのは、元親が信頼していた家臣・久武内蔵助親直じゃったがです。

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慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、長宗我部盛親が西軍に与して敗れた後、井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し、本領安堵をしてもらうように取り付けようとしたけんど、久武親直が「津野親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言した事を信じた弟・盛親によって殺害されちょります。

享年29。

その結果、津野親忠を殺した事で長宗我部盛親は「兄殺し」として徳川家康に咎められ、長宗我部氏改易の一因となっちょります。

【 参考・引用 】
津野親忠 - Wikipedia
長宗我部盛親 - Wikipedia


津野親忠墓(香美市)

津野親忠の墓 (津野神社) 県指定史跡

親忠は長宗我部元親の三男で、高岡郡半山(はやま)城主津野勝興の養子となり名君といわれた。
元親の長男信親が豊後(大分県)戸次川(へつぎがわ)の戦いで戦死したので家督相続の問題が起こったが、土佐の国主が四男の盛親に決定してからも元親の疑いを受け岩村の雪巌寺(のちに孝山寺と改める)に幽閉された。
慶長五年(1600)九月、国主の座を代えられることを恐れた盛親によって切腹させられた。
親忠は二十九歳であった。
遺骸は神社本殿の下に永遠の眠りを続けている。

平成二十一年二月
高知県・香美市教育委員会

【 参考引用 】  説明板より


津野親忠墓(香美市)

諡(生前の行跡に基づいて死後に贈られた名)して考山寺殿雪庭宗笋居士と云った。
遺骸をここに葬り、その諡號(主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名)を用ひて考山寺と改めた。
今は廃寺となっている。
親忠の墓は五輪塔で、亂(乱)竹叢生の中に孤立し、塔面の文字亦(また)皆消滅して讀(読)み難くなっている。
墓南に津野神社がある。
こは元禄年間、親忠の木造を齋き祀った(神聖なる物として祈り祀る)ものである。

【 参考引用 】  復刻版『土佐の史蹟名勝』 武市佐市郎・著(昭和59年)  


津野親忠墓(香美市)

藪の中に数基の墓石が建っちょります。

津野親忠墓(香美市)

これが津野親忠の墓標の五輪塔じゃと思われます。

津野親忠墓(香美市)


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