野中兼山 - 野中兼山一族の墓所

野中兼山一族の墓所

[ 高知県高知市塩屋崎・筆山南面  ]


野中兼山一族の墓所

筆山の南面、筆山トンネルの高見側出口上は兼山公園となっちょり、傍に建設省高知土木事務所の建てた「高知県の土木事業の祖 野中兼山」と言う石碑が建っちょりますが、そこから真っ直ぐに延びる石段の先に野中兼山一族の墓所があるがです。

なお、兼山の正妻市や長男清七、次男欽六、五男希四郎、三女寛、五女将、六男貞四郎などの墓は、幽閉されちょった現・宿毛市桜町の東福院墓地内にある。

野中兼山一族の墓所

文化財情報 史跡 野中兼山墓

野中兼山(1615~1663)は、1663(寛文3)年に辞任するまで約30年間、土佐藩政を掌り、用水灌漑、新田開発、郷士起用、学問奨励等に画期的業績をあげた。
しかし、急激な開発が領民の疲弊を招いたとして批判され失脚し、その年の12月15日、急病で没す。
兼山とその一族の墓は筆山東南側の高見山にある。
中心部に兼山の墓があり、その右側に養父野中玄蕃直継、左側に養祖父野中主計益継の墓が、そして前面右側に娘婉[えん]女の墓、左側に兼山の妾で野中清七一明の実母「池氏之墓」がある。

【 参考・引用 】  
文化財情報 史跡 野中兼山墓 - 高知市公式ホームページ:


野中兼山一族の墓所

野中兼山一族の墓所

墓所中央にあるのが、野中伝右衛門良継(兼山)の墓ながです。

以下の説明は、野中兼山 - Wikipediaより引用させてもらいます。


野中兼山一族の墓所

祖父・野中良平の妻は山内一豊の妹・合姫(後の慈仙院)で、兼山の父・良明を生む。

兼山は7才の時に父・良明を失い、母の縁で一豊に登用され土佐入国時は5000石を領しちょったけんど、一豊亡き後の第2代忠義、第3代泰豊の代になって、幡多郡の内15000石を与えるとの意向が示されたけんど、一豊からは20000石の約定じゃった事から、約束が違うとして土佐を離れ浪人となり、兼山は元和元年(1615)播州姫路にて生れちょります。

兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死後、兼山は母とともに土佐に帰った。

野中兼山一族の墓所

養祖父・野中主計益継の墓
(側面に、曽孫孤女婉植之)

山内一豊の妹・合姫(後の慈仙院)は兼山の祖父・野中良平が亡くなった後は、祖父・野中良平の弟・野中益継の妻となり、養父になる野中玄蕃直継を生む。

野中兼山一族の墓所

養父・野中玄蕃直継の墓
(側面に、孫孤女婉植之)

野中兼山13歳の時、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟になる奉行職の野中直継の娘・市の入婿となり、15歳で元服し、良継と名乗った。

小倉省助・三省父子の墓 - 小倉三省は藩政初期の重臣で儒学者 2013-08-30

野中兼山一族の墓所

野中兼山の側室の一人で・野中清七一明の実母「池氏之墓」。
(側面に、孤哀女泣婉植之・・・)
四女・婉さんの実母になる。

野中兼山一族の墓所

明暦2年(1656)土佐藩第2代藩主・山内忠義が隠居し、土佐藩第3代藩主に山内忠豊が付くと、寛文3年(1663年)野中兼山の施政に不満を持つ孕石元政、生駒木工などが家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出し兼山を失脚させ、兼山は現・南国市中野に隠居するも、妻や子供たち親族一同は宿毛に幽閉されるがです。

そして、野中兼山の6人の男子の系統が絶えるまで一族は宿毛に幽閉され続けるがです。

幽閉が解かれたのは、野中兼山の死後40年後じゃったがです。

生き残った、四女・婉さんは、城下に戻り、父・野中兼山の眠る墓所を築くがです。

野中婉女宅跡 - 野中兼山の娘 2010-04-22

野中兼山一族の墓所

古槇次郎八重固の墓

古槇次郎八重固は、兼山の小姓となり兼山が亡くなるまで尽くした人ながで、現・南国市中野で兼山が亡くなって、葬儀を行うために高知城内にあった元・野中兼山邸に運ぼうとしたけんど、叶えられず父・古槇八左衛門邸で葬儀を行うがです。

そして、埋葬中に兼山の墓所より一段下で、忠義を通し殉死しちょります。

今も、兼山の墓所より一段下で眠っちょえいます。

迫害の序幕は早くも彼の葬儀に於て開かれぬ。
当時兼山の邸は高知城内なる今の藤並神社の境内(現・県立文学館周辺)にありしが、眠れる彼が中野より高知に到りしとき、其本邸に入るを拒まれ、臣下の家(古槇八左衛門邸)にて葬儀を営まざるを得ざりき。

桂井素庵の日記にいふ。

遺骸は、高知城南潮江村高見山に葬る。(因みに、北斜面麓が山内家墓所)
時に天地晦冥(あたりが暗くなること)○々として、雪降る。
嗚呼一世の偉人永へに地下の人になりにけれ。

中略

かくて人々の兼山を埋むる間に、一封の書を出して大九郎てふものに(と言う者に)託て、同僚伊藤才蔵に致さしめ、、自ら兼山の塋域(墓所)を下る一階にして自害す。
人々大に驚き馳せて之に赴く、重固国禁を犯して累を主家に及ぼさんことを恐れ、従容(危急の場合にも、慌てて騒いだり焦ったりしないさま)として其殉死に非ざる辨疏(いいわけ)し、遺族の野中家に忠誠を盡さん(尽す)ことを乞う。
中烈悲壯、視る人嘘唏(むせび泣く,すすり泣く)せざるなかりき。

【 参考・引用 】  『野中兼山』 辻重忠・著 (明治44年)


桂井素菴 - 文化・文政期以前は才谷屋と並ぶ金持ちで儒学者 2013-01-24
野中兼山邸跡の碑 - 本来の跡地に建てられちゃーせん理由は 2009-11-20

野中兼山一族の墓所

伊藤玄白夫妻の墓

詳しくは判らんけんど、伊藤玄白とは古槇次郎八重固が殉死する間際に、遺書を書き送った人物ではないかと・・・・・。

野中兼山一族の墓所

乳母信婦 植野氏 野中氏婉植之墓

婉さんの、乳母じゃと思われます。


野中兼山一族の墓所

野中太内助継の墓

この人は直接野中兼山に所縁はないがですが、野中兼山一族の墓所に眠っていますき、簡単に・・・・・。

野中兼山の実祖父・野中良平と養祖父・野中主計益継(実祖父・野中良平の弟)の兄弟になる野中逐継の子孫(養子)じゃけんど、野中逐継にゃ野中兼山に関わる血縁関係がなかったき、断絶を免れちょります。

幕末の土佐に関わる人物ですき、後日別記事で御紹介します。


野中兼山一族の墓所・顕彰碑

墓所入口右側に建つ顕彰碑

野中兼山一族の墓所・顕彰碑

碑題字・田中光顕

赤土峠 - 佐川勤王五士達の「脱藩志士集合之地」碑 2015-03-23
田中光顕墓 - 土佐勤王党の生き残った一人で宮内大臣などを歴任 2012-11-11
忠魂護皇基之碑 - 龍馬の名が国威発揚の為に利用された 2011-06-11
田中光顕邸跡 - 勤王屋敷跡 2011-04-18
田中光顕墓 - 中岡慎太郎亡き後の陸援隊を率いた一人 2010-11-24

野中兼山一族の墓所・顕彰碑

高知市教育委員会の説明板より

野中兼山一族の墓所・顕彰碑

墓所入口左側に建つ野中兼山先生墓域改修碑

野中兼山一族の墓所・顕彰碑

碑文・大町桂月

大町桂月誕生地 - 碑文の書を書いた林譲治から、話は幕末へ 2011-04-17
「乙女の像」との関係 - 大町桂月誕生地 2009-01-03
名月酒供養祭 - 大町桂月 2009-01-04

野中兼山一族の墓所・顕彰碑

高知市教育委員会の説明板より

【 参考・引用 】 
『野中兼山』 辻重忠・著 (明治44年)
『土佐の墓』 山本泰三・著 (昭和62年) 
『高知県人名事典』 高知新聞社・刊
文化財情報 史跡 野中兼山墓 - 高知市公式ホームページ:
野中兼山遺族の墓 | 高知県の観光情報ガイド「よさこいネット」:
野中兼山 - Wikipedia:




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