石土神社 - 延喜式社・土佐之國二十一座の一社

石土神社(十市)

[ 高知県南国市阿土字石土  ]


南国市の石土池の西側に、この石土神社は鎮座しちょります。

石土神社(十市)

拝殿脇の社号標にゃ「日本一社 延喜式神社 石土神社」とある。

創建は定かじゃないけんど延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳』に記載されちゅう、延喜式社・土佐之國二十一座の一社になる由緒ある神さんながです。

石土神社(十市)

御祭神の石土毘古命とは、神道における家宅を表す(または守る)六柱の神の総称・家宅六神の最初に産まれた神さんとされちょり、古事記じゃ伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みをおえたのち神生みをおこなったとき,2番目に生まれれ、岩や土の男神とされちょりますが、「石土神社」のHPでは磐土神(いわつちのかみ)、赤土神(あかつちのかみ)、底土神(そこつちのかみ)となっちょります。

【 参考・引用 】  石土神社お山開き:


石土神社(十市)

延喜式石土神社記

御本殿 伊勢皇大神宮御下賜御料材
御祭神 石土毘古命勧請年暦不詳

在十市ノ里池ノ端一日本記二曰伊弉諾ノ尊入レ水ニ吹二生ス磐土命一続日本後記二曰承和八年八月辛ノ丑以二土佐ノ國石土ノ神ヲ預シム官社ニ

五十四代仁明天皇御宇承和八年(千百十年前)
六十代醍醐天皇の延喜五年(千五十二年前)延喜式格制定
延喜式社土佐の國二十一社の其の一にして神明帳に成る日本國内上格の御官者は神祇官より直接幣帛を捧げらる谷重遠先生の土佐の國式社考に詳なり。
御神霊は神秘にして掛巻も毘けれども伊邪那岐の命の御子綿津見の命 の次に生れさせ給ひし上筒男の命中筒男の命底筒男の命の御替名 が此大神である事は本居宣長先生の古事記伝に明なり。
此大神は海上鎮護の神にして漁業は素より野商業家内安全にも等しく霊徳高く長宗我部山内公歴代崇敬の御神元海南学校教諭寺石正路先生史蹟調査の結果によると三百有余年前修験者此神社より伊豫國新居郡瓶ヶ森に勧請し延喜式社なりと衆人に呼かけても朝庭 に於せられては御記録の通りにて此郡此村にして寸分の紛れなしとて御変更なかりしとか其の後伊豫新居岡市の境なる伊豫の地高嶺に遷座してより本名高嶺の名は次第に廃れ現在の石鎚山となる石鎚神社は延喜式社に非ず、伊豫國周布郡新居敷村ニ九一一番地秋山秀吉等明治十三年四月二十二日上御届出同年六月十五日出版の著書の中に石鎚神社は元土佐の國より分霊したるものにして土佐長岡の石土毘古の命と原祠を稱すと記せり(石鎚山先達記に有り)。
当石土神社は夙に大政官符に列し日本有数の神社にも拘らず明治初年より大正末期迄おろそかとなり誠に恐れ多き次第なりしを竹内丑太郎が再興し横田早馬達の努力により今日の隆盛を見るに至りしは限りなき大神の御威徳と一般信者の奉献の賜として記す。

昭和三十二年丁酉七月吉日 石土神社.

【 参考・引用 】  境内説明板より


また、『鎮守の森は今』には、下記のようにある。

御祭神は石土毘古命(説・磐土神)

勧請年月不詳だが、承和5年(838)には既に官社に列せられた古社である。
由緒ある立派な神社であったが、星霜が経つにしたがい、荒れ果てて祀所のみになっていた。
しかし衰退を嘆く人々が、元禄8年(1695)に神社を再興してから神霊四方に輝き、霊験新たになり、詣ずる人々が群をなすようになった。
境内の社記によれば、当神社は歴史が古く、伊予の石鎚神社を奥の院、当社を前の院ととなえるようになって、一層名高くなったとある。

【 参考・引用 】  
『鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社』 竹内荘市・著


石土神社(十市)

夫レ當(当)石土神社ハ石土毘古命ヲ祭神トシ、其ノ名ハ延喜式ニモ載ル由緒の官ナリ
雖然荒廃甚シク人ハ久シク其ノ何モノタルヤヲモ識ラザリキ
時ニ大正ノ末頃、竹内丑太郎ハ伊豫国石鎚神社ノ社司武智勝丸ヨリ同社ノ本尊ハ元来土佐国長岡郡ノ南部ニ鎮マリマスト聴キ之ヲ奇トシ、爾来当社ノ世ニ顕レム事ヲ切ニ願ヘリ
其ノ後横田早馬ガ古記録渉猟調査シ其ノ延喜式ニ記ス石土神社タルヲ明カニシ、大正十三年其ノ復古期成大会ヲ開キ自ラ奉斎会長ニ就任、爾来三十有余年多数同志ト共ニ其ノ隆昌ヲ計リ遂ニ今日ノ盛大ヲ見タリ
寔ニ当社ノ盛衰ト有志者ノ労苦ヲ偲ブトキ感慨無量、茲ニ会員相謀リ一碑ヲ建立シ由来ヲ記シテ後世ニ伝フ

昭和三十二年七月一日 川上不動尊主管 船岡法蔵撰書

【 参考・引用 】  石 土 神 社 碑 文より


石土神社(十市)

石土神社(十市)

拝殿の右、境内社・蔵王権現の背後の岩壁に石土洞という鍾乳洞が口を明けちょります。

石土神社(十市)

何でも、この鍾乳洞は「蛇穴」と呼ばれちょり、東の穴を「男蛇穴」または「福穴」、西側を「毒蛇穴」と言うそうじゃけんど、洞窟入口は東西に広がっちょり、その奥に幾つかの横穴が奥の方へと続いちょるように見え、ちょっと東西の穴と言う穴がどれを指すのか判断が付きかねるように思えたがですが・・・・・。

石土神社(十市)

池の端の蛇穴 (十市)

長岡郡十市池ノ端の石窟は俗に「十市の蛇穴」と呼ばれ大昔つがいの大蛇が棲んでいたが女の方は毒蛇だったので火を吹いて男蛇と共に焼け死んだという伝説がある。

峰寺の住職が飼っていた猟犬は頗るの逸物で兎や狸をとることが得意だった。
猟師などに盗まれてはと心配の余り「八葉山手飼」という木の札をくくりつけていた。
或日のこと山から追い出した兎がこの蛇穴へ逃げ込んだのをこの犬が追っかけて行って中々出て来なかった。
犬も兎もこの穴で死んだものと思われていた。
当時伊豫(伊予
当時伊豫(伊予)の国は吉田侯の領地であったが、この領地内にも洞窟があって十市の蛇穴同様その奥を究めたものがなかった。
或る日土地の若者が、洞窟の探険に出掛け余程奥まで行った時犬と兎の死体を発見した。
犬の首輪には「八葉山手飼」の木札がついていた。
「八葉山」というのは土佐国長岡郡十市村峰寺のことで、四国八十八カ所の札所でもある。
それでこの寺の飼犬と判ったのである。
この穴は土佐の国まで抜けているのかと一同を驚かせたという。

【 参考・引用 】  
『土佐奇談実話集』 各地の怪奇談より 小島徳治・著(昭和32年)


石土神社(十市)

因みに、お話に出て来る峯寺とは、四国霊場三十二番札所・八葉山 求聞持院 禅師峰寺の事ですき。

禅師峰寺 - 四国霊場第三十二番札所  2009-04-22

石土神社(十市)


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