磐上神社 - 薫的和尚が最初に埋葬された地

磐上神社(薫的大和尚之墓所)

[ 高知県高知市三ノ丸  ]


三ノ丸の北斜面の下に磐上神社はあり、写真にもあるように一ノ鳥居の脇にある石碑にゃ土佐の”いごっそう”和尚さんと言われちゅう、「薫的大和尚之墓所」と刻まれちょります。

と言うても、亡くなられて最初に埋葬された場所ながですが、現在でもこうして手厚く祀られちょります。

磐上神社(薫的大和尚之墓所)

石段を上って行って二ノ鳥居を潜ると、境内の先に拝殿が鎮座しちょります。

ちょっと前までは、この開けた場所にや社務所などの建物があったけんど、老朽化しちょりましたき撤去して周囲を整備されたようですねー。

写真にも写しちょりますが、ここから拝殿に目をやると、その背後の本殿との間に、”ざまーな(大きな)”石柱が空に向って建っちょります。

磐上神社(薫的大和尚之墓所)

そこにゃ「薫的大和尚之墓」と刻まれちょります。

薫的和尚に付いては、下記の記事を読めば良くお判りいただけると思います。

壮 絶 ! 薫 的 和 尚 の 論 争

磐上神社(薫的大和尚之墓所)

山内政権の陰謀迫害にひるむことなく、獄にあってなお法難に耐え抜いた薫的和尚は、寛文十年(1671)正月十日結跏趺坐のまま静かに入寂した。
其の日、暗雲にわかに低迷し、たちまち豪雨は沛然として大高坂の森を震わし、落雷は打ち続いて山頂の牙城を脅かす。
世の人みな時ならぬこの嵐を、天地が薫的和尚の死を悼むところと語り伝えた。
薫的和尚は由緒ある家に生れて沙門に入る。
四十八年の生涯を尽くして法燈を守り、今も精霊この地にあって、久遠の歴史に活き、衆生済度の功徳を積む。

昭和三十七年五月 吉村速夫・撰文 


磐上神社(薫的大和尚之墓所)
薫的和尚が亡くなっても、その恨みと思われる祟りが、関係者周辺に続いたそうながです。

特に、無実の罪で投獄した奉行・孕石頼母は正徳4年(1714)狂死し、子・孫も次々に変死したと言う。

因みに、この孕石頼母は、寛文3年(1663)生駒木工らと謀り深尾出羽を通じて藩主山内忠豊に上申書を呈し、野中兼山を失脚させた一人ながでして、結局、土佐の三大怨霊の中の二人・野中兼山と薫的和尚に祟られ、家系は絶え断絶したがです。

享保10年(1725)山内規重(山内忠義の弟・重昌の4代後の子孫)の母・高善院の夢枕に立ち、「今を去る55年前、無実の罪に陥れられ、無念の死を遂げた。その恨みを7世まで晴らさんものとする。」と聞き、薫的和尚の祟りを鎮める為に墓上に小祠を建てたそうながです。

山内規重 - 土佐藩第8代藩主・山内豊敷の父 2011-10-24

享保12年(1727)に、山内家によって遺骨を、この地より東に約1.4Km、高知城より北に0.7Km離れた瑞應寺に改葬し、洞ケ島神社(昭和24年に薫的神社に改称)として祀られちょり、今でも「薫的さん」と親しまれ、崇敬者が絶えんがです。

薫的神社 - 薫的和尚 2010-05-20
薫的和尚の御廟 - 薫的神社 2010-06-18

【 参考・引用 】  薫的記〈薫的神社〉




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