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須賀神社花取讃歌碑 - 踊りは一条氏と津野氏の戦いが起源とも

須賀神社 (須崎市大谷)

[ 高知県須崎市大谷・須賀神社  ]


前回御紹介した須賀神社の境内に「須賀神社花取讃歌」と言う碑が建っちょります。

これは、神社の祭礼の時に舞われる花取踊りと言う奉納踊りの歌詞ながです。

頭に孔雀や山鳥・雉(キジ)等の鳥毛の被り物をして、伊賀袴に白足袋装束で、地区に依って多少違うようじゃけんど鉦(しょう)や締太鼓を叩きながらお囃子に合わせて踊られます。

須賀神社でも毎年10月18日の秋祭りに境内で奉納される踊りで、500年程受け継がれて来た伝統があり、現在では「土佐の太刀踊(大谷花取踊)として高知県の保護無形文化財に指定されちょります。

土佐の太刀踊((大谷花取踊)

毎年10月18日、須賀神社秋祭りに境内で奉納される。
須賀神社は、大谷、野見地区を氏子とするが、花取踊は大谷地区の若者によって伝承されている。
祭典に先立って海辺の方から薙刀(なぎなた)打ち、挟み箱、獅子の一群が宮に入るが、これは野見地区の若者によって伝承されている。
踊り子は鳥毛をかぶり、裁着(たちつけ)姿に赤帯、背に長い布を垂らし、2列になって踊る。 
太刀と鞘(さや)とを手にして踊るが、鳥毛にしても太刀にしても作り物が大きく、従って踊りの動きも大柄に感じられる。
この踊りは、須崎市多ノ郷賀茂神社の太刀踊りを伝授されたものと伝えており、神幸が境内に入るとき、注連縄を切り放す。
なお、神幸では薙刀振り、獅子頭が列をなし、祭り10日前に行われる浜口家の神事も注目すべきものである。

【 参考・引用 】  
県指定保護無形民俗文化財  -高知県教育委員会文化財課-:

【 参考動画 】  須賀神社 花取り踊り


此処、須賀神社の踊りは「須崎市多ノ郷にある賀茂神社の太刀踊りを伝授されたものと伝えており」とあるように、ここら辺は当然、津野氏の勢力圏じゃったがです。

因みに、賀茂神社は『南路志』にある『賀茂大明神勧請之記』じゃと津野氏の祖・津野経高の勧請じゃそうで、以前御紹介した中平兵庫助元忠は津野経高より五代末裔になるがです。

中平兵庫助元忠 - 土佐七守護・津野氏の分家で土佐・中平氏の始祖 2014-11-17
八百比丘尼多重塔 - 賀茂神社  2009-02-01



此処からは、いつもの当方の想像から出る与太咄を。

踊りの起源について、土佐の戦国時代に幡多の一条氏と津野氏の戦いの際に敵を油断させるために舞われたと言われる説があるがです。

何でも、須崎の岡本城が何度も一條氏に攻められたけんど、要害堅固でなかなか落ちなかったそうながです。
そんで一條氏は策を練り、祭礼の際に池ノ内(須崎・岡本城の北側地区)に兵を伏せ、少年たちに踊りを踊らせたそうなが。
城兵達が城から降りて来て見物をしよった隙に一條軍が奇襲をかけ岡本城を落城させた事から、花取り踊りの始まりは岡本城落城が切っ掛けで、須崎市池ノ内が始まりじゃそうです。


踊りは津野氏に所縁のある高岡郡や幡多地方に多く伝承されちょりますき、上記説のように津野氏側にしたら岡本城落城の出来事を思い起こさせるような踊りを、祭礼と言う祝い事の場で津野氏所縁の神社に踊りを奉納し、更に津野領の民に見せる訳はないと思うがよ。

そんでちょっと調べたら、『土佐国古城略史 全』に幡多郡之部に、「花取城」の記述がある。

花取城

城主詳かならず。
或人曰、津野氏の支城也。
往昔鋪地某花取城を攻む、久しきに彌って抜く能はず。
兵士をして白刃を持し城下に伎踊(おどり)し、城兵を誘はしむ。
城兵察せず。
門を開き伎踊を観る。
鋪地の兵進んで城に入ることを得、遂に城を拔く。
世に是の伎踊を花取り伎踊と言う。

森城按ずるに、三原郷に花取城あるを聞かず、又桑名丹後野根城を攻むるの同謀を用ひ、又或書曰、高岡郡五社の祭りに始めて此の伎踊を用ひ、後之を諸社に用ゆる。
是の三の者孰(いずれ)れかを知らず、暫く記して以いて明微を待つ。

【 参考・引用 】  『土佐国古城略史 全』 宮地森城・著

とあるように『土佐国古城略史 全』には花取城の事を書いちょりますが、最後の方に森城(著者・宮地森城)は
① (ある人の話じゃと花取城と言う津野氏の支城が)三原郷にあったと言うけんど、自分は聞いた事はない。
② 桑名丹後が野根を攻めった時にも、同じように花取り踊りを踊る策を用いた。
③ 踊りは最初、高岡郡五社の祭りで踊られたが、後に津野氏所縁の諸社に広まった。
しかし、どれが本当か判らないので、一様記述はして明らかになるのを待つと記されちょります。


因みに、②は天正2年(1574)に長宗我部元親が奈半利城主・桑名丹後に野根城城主・惟宗出羽守を攻めさせた際にも、花取り踊りを踊った事が同 『土佐国古城略史 全』に記されちょりますが、これは長宗我部軍が、其の奇策を真似て野根城攻めに利用した話じゃないかと思うが。

当方は、逆に「花取城」は幡多地区の何処かにあった一條氏の支城で、それを津野氏の方が攻めて城を落としたと思うがです。

それと踊りが奉納されるようになったのは、長宗我部元親が三男・親忠を津野氏の養子にして津野氏を継がせて以降の時代になってからじゃないかとも。

岡本城落城後から天正2年(1574)頃の津野勝興の時代までは津野氏は一條氏の家来に降っちょりますき、その時代に踊りを演じる事はあり得んろー。

碑に「讃歌」とある以上、津野氏を「ほめたたえる気持ちを表す歌」と言う意味じゃきねー。

そうすると津野氏が一條氏から長宗我部側の軍門に下った以降に、元・津野領の民たちが所縁の神社の祭礼で舞始め、踊りの由来を知った元親軍が天正2年(1574)の野根城攻めの際に、「この戦法は使える」と真似て城を落としたがじゃないかと。

もし野根城攻め以前に土佐の中部~西部で既に踊りが広まっちょったら、幾らなんでも多少の噂や話なりが野根軍にも伝わっちょても不思議じゃないき、同じような策にハマり、油断して易々と城は落ちんですろー。

その後、山内氏の時代になっても踊りは元・津野領を中心に守られ続け、今日に至っちゅうがじゃないかと思うがですよ。

当方の与太咄ですが・・・・・。


「高岡郡五社」とは現・高岡郡四万十町(もよりの駅・JR窪川)にある総称して高岡神社と呼ばれる仁井田五社(一之宮・東大宮、二之宮・今大神宮、三之宮・中ノ宮、四之宮・今宮、五之宮・森ノ宮)を指すのか・・・・・。

ただ津野氏との関わり等、詳細は判りません。


津野氏に付いては、高岡郡の中西部の津野荘・山間部の津野新荘・檮原荘を拠点としたと言われちょりますが、その当時の津野山が現在の高岡郡津野町付近なのか、この須賀神社や賀茂神社の鎮座しちゅう周辺の須崎市吾井郷付近なのかはハッキリしちょらんそうです。

津野荘

津野荘は京の賀茂御祖神社の荘園で、高岡郡吾井郷津野保(現,高知県須崎市吾井郷)にあった。
本来は土佐国の賀茂御祖神社の荘園は土佐郡潮江荘であったが津波により水没、代わって津野荘が立荘された。
また、津野新荘は土讃線土佐新荘駅や新荘川にその名をとどめており、名称からして津野荘の成立後に津野新荘が成立したものと考えられる。
新荘川の流域に津野氏の山の拠点となった姫野々城がある。
名称からの推測では津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その後山深い津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる。

【 参考・引用 】  津野氏 - Wikipedia:




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