吉良親実 - 吉良神社は七人ミサキ伝説の吉良親実が御祭神

吉良神社(春野町)

[ 高知県高知市春野町西分増井  ]


春野町を東西に流れる新川川の左岸の西分増井に、木塚山と言うこんまい山と言うか丘のような木々の生い茂った場所があるがです。

吉良神社(春野町)

鳥居にゃ吉良神社と言う扁額が架かっちょり、元は木塚明神と言い、地元の人々からは「明神さん」として親しまれちょるそうです。

吉良神社(春野町)

鳥居脇の吉良神社の説明板に、御祭神は吉良左京進秦親實公とある。

吉良神社(春野町)

吉良左京進秦親實とは、長宗我部元親の弟・吉良親貞の子ですき元親の甥っ子になり、一般に吉良親実(きら ちかざね)と言い元親の娘を娶っちょります。

父の死後、その家督を相続する。
そして一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた。
天正14年(1586年)12月、元親の嫡男である長宗我部信親が戦死して跡継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序から元親の次男・香川親和を推し、4男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。
このとき、親実は生来の気性の激しさから、元親に対してたびたび諫言して、長幼の序を守って親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言がかえって元親の逆鱗に触れることになり、天正16年(1588年)10月、親実は比江山親興と共に切腹を命じられたとされる。

親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある。

それゆえか木塚明神や、四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」は親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。

【 参考・引用 】  吉良親実 - Wikipedia:


吉良神社(春野町)

吉良神社(春野町)

拝殿に向って右奥に、七社明神の祠があるがですが、此方に祀れちょるのが元親から切腹を申し付けられて無念の切腹をした吉良親実と共に殉死した忠臣達ながです。

勝賀野次郎兵衛實信
城ノ内大守坊
小島甚四郎
宗安寺真西堂
永吉飛騨守宗廣
吉良彦太夫
日和田与三左衛門

7人みさき

今ではもう「七人みさきのたたり」などと言う人はいないでしょうが、今のお年寄りが子どもだった頃には、きのうまで元気であった人が急に寝ついたりすると、「七人みさきにおうたからだ」などとよく言ったものです。

七人の怨霊、実際は八人になりますが、悲惨な最期を遂げた吉良親実以下の人びとの怨霊がいつも空をさまよっており、それに行きおうた人は大病になるというわけで、人びとはこの目に見えない魔ものを大変恐れたものです。

親実が長宗我部元親の怒りを受けて、小高坂で切腹したのは天正十六年十月四日のことです。
腹真一文字にかき切り腸をつかみ出すところを、検使の宿毛甚左衛門が大刀を振りおろしたわけです。

この夜は、親実は小高坂の下村某の家で碁を打っていたのですが、元親の使いという二人の者が現われ、「元親の命である。」と言って切腹を申しわたしました。
親実は打ちかけの一局を収め、沐浴して体を清め、静かに半膳の食事をしたためました。
そうして左右の者に言いました。

「自分は秦家の姻戚である。主に過ちある時は諫め正すのが自分の責任である。今、奸悪の者共が主に過ちを犯させ、忠臣〕を殺そうとしている。主家の衰運は火を見るよりも明らかである。」と。

やがて定めの座につき、腹をほふり、腸をつかみ出すところを甚左衛門が介錯したのです。
時に親実は二十七歳であったといいます。

元親の怒りはそれだけで収まりませんでした。
続いて数日の間に、親実の旧臣であり親実にくみしていた永吉飛騨守ら七人がことごとく斬られてしまいました。
これが世にいう七人みさきであります(親実を入れると八人になるが)。

このことがあってから、あちこちでつぎつぎと怪異が起こりました。
小高坂の屋敷跡や、親実の墓のある木塚山(西分増井山)のあたりから、夜毎にケチビが現われるようになりました。
小高坂では首のない武士が白馬に乗ってはしるのを見たというし、大入道が鉄棒を引っぱってはしるのを見たとも言います。
その出会うた人、見たと言う人は、たちまちその日から大熱を発し、いたるところで大病人や変死の人が出て来ました。

一方、元親に取り入って日夜、讒言を行った奸悪の久武親信(元親の家老で佐川城主)の家にも変事が続きました。
八人の子が次つぎに発狂して七人まで死んだし、親信の妻も悲嘆のあまり自害して果てました。
正にこれ因果応報〔いんがおうほう〕というところでありましょう。

西分増井沖の岡にある吉良神社は吉良親実を祀った社です。

【 参考・引用 】  高知市春野郷土資料館:はるの昔ばなし 七人みさき


吉田惣右衛門孝世の記した軍記『土佐物語』では、嫡男・信親亡き後の家督を巡って、元親が「家の惣領は五郎次郎か孫次郎たるべしと言えども他家を継がしめぬ。惣領の器にあらず。是に依って千熊丸(盛親)を家督として」と所存を問うと、真っ先に賛成したのが長宗我部氏家臣・久武親直ながです。

吉田惣右衛門孝世 - 長宗我部氏軍記『土佐物語』著者 2012-04-16
長宗我部信親 - 戸次川の戦いで討死 2012-03-25
久武肥後守昌源 - 長宗我部譜代の家臣で久万城主 2011-05-01

それに対して「長子不幸の時、次男是に継ぐこと、道の常にて候へば、五郎次郎殿、一度香河に移り給ふといへども、彼家断絶の上は、今是を御惣領に立てられん事当然なり」と唱えたのが、吉良親実(長宗我部元親の弟・吉良親貞の子)・比江山親興(元親の父・長宗我部国親の弟・国康の子)達ながです。

結局、家督は盛親が継ぐことになり、家臣の久武親直の讒言(相手をおとしいれるために、相手を悪く言ったり、ありもしないことをつくりあげたりして、目上の人に告げること。)を信じた元親は、身内でもある長宗我部一門の吉良親実や比江山親興らを切腹させる事になるがです。

長宗我部氏滅亡の引き金を引いたのはこの事件が切っ掛けとなったと言っても過言ではなく、主犯は長宗我部一門以下の家臣団の一人で邪な久武親直が居たからに他ならないがです。

いつの時代でも、側近は信頼出来る人物か否かに付きますきねー・・・・・。

土佐じゃ「7人みさき」と言ったら、野中兼山・薫的和尚と共に土佐の三代怨霊とも言われますけんど、全て正論を唱えても周囲から疎まれ邪魔者扱いされた揚句に、失脚させられちょるがでして、庶民にゃ悲劇の主人公として大事に祀られちょります。

野中兼山邸跡の碑 - 本来の跡地に建てられちゃーせん理由は 2009-11-20


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