香川五郎次郎親和 - 長宗我部元親の二男

伝 香川五郎次郎親和之墓(南国市岡豊町八幡)

[ 高知県南国市岡豊町八幡字岡豊山  ]


南国市の岡豊城址にある県立歴史民俗資料館に上って行く途中の右側に、写真の「伝 香川五郎次郎親和之墓」と記された標柱が建っちょりまして、道路から脇道に入って少し下った場所に墓所があるがです。

伝 香川五郎次郎親和之墓(南国市岡豊町八幡)

伝 香川五郎次郎親和の墓

元親の次男親和は、讃岐の香川家を継いだが、秀吉の四国征伐によって香川家は改易となり、親和は人質として郡山に居た。
後岡豊に帰り東小野村に蟄居していた。
元親の長男の信親戦死の直後、この親和に秀吉の使いが土佐に下り、朱印状が与えられたと言われるが、世継ぎの件が四男盛親に決まると、、彼は快快(おうおう)として楽しまず遂に病死した。
累代の墓に葬られず一人寂しく眠っている。

南国市教育委員会

【 参考・引用 】  説明板より


伝 香川五郎次郎親和之墓(南国市岡豊町八幡)

親和は永禄10年(1567)、長宗我部元親の次男として生まれちょります。

天正6年(1578)、父・元親は讃岐国へ侵攻し、天正9年(1581)に西讃岐4郡の守護代である香川之景(信景)のもとへ和睦の条件として親和を養子として送り込み、香川氏の名跡を継がせた。
このとき、香川五郎次郎と名乗る(「五郎次郎」は香川宗家の通字)。
そして香川氏の軍勢を率いて讃岐の中西部を転戦し讃岐の制圧に貢献、また東予の豪族金子元宅との同盟強化に際して功があった。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐によって長宗我部氏が降伏すると、香川氏は改易となり、親和は人質として大和郡山に送られ、天正14年(1586)に岡豊に帰国する。
そして元親から幡多郡山田郷一帯に所領を宛がわれ、岡豊城下の東小野村の屋敷で家臣の中間藤左衛門、山地利庵らと居住する。
同年、長兄の長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死したため、豊臣秀吉は元親に朱印状を出し、親和に家督を継がせるよう計らったが、元親はそれを良しとせず、溺愛する4男の長宗我部盛親に家督を継がせることを決めた。
程なく親和は病にかかり、天正15年(1587)、岡豊城下で死去。
享年21。
死因については家督相続をめぐるショックから病気になったとする説をはじめ、家督相続の可能性が無くなったために断食して命を絶った説、長宗我部宗家を慮って断食したとの説、父による毒殺説などがある。
その遺体は一族累代の墓所には葬られず、岡豊山麓の小さな墓石の下に葬られた。

【 参考・引用 】  香川親和 - Wikipedia


親和の死に関しては諸説あるがですが、寛永8年(1631)元親の側近として仕えた高島孫右衛門正重が元親の三十三回忌に御影前に供える為に記したとされる『元親記』には下記のようにある。

五郎次郎(親和)は心の内で「長男信親はなくなり、豊後の陣の後に、太閤様は自分を世継ぎとするよう、御朱印まで出されているので、自分が総領職につく事は間ちがいない。」と思っていた。

しかし元親卿には、そのつもりはなかったのだ。

どうやら父の考えは違っているようだと感じ始めた時、生活費として知行が与えられた。

これでいよいよ自分には望みはなくなったとがっかりして、五郎次郎はノイローゼになり、体力も劣えて労瘵(肺結核)を病んでしまった。

【 参考・引用 】   
現在語訳 日本合戦騒動叢書 『元親記』 泉 淳・著 (平成6年)


労瘵(ろうさい)=労咳(ろうがい)は不治の病として恐れられちょった病気ですき、もしかしたら死後も恐れて一族累代の墓所に葬られる事が出来んかったがでしょうかねー・・・・・。

真実は判りません。


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