岩見重太郎の塚 - 大阪夏の陣で討ち死にした薄田兼相の前身

岩見重太郎の塚 (室戸岬・最御岬寺)

[ 高知県室戸市室戸岬町・最御崎寺 ]


室戸岬にある第24番札所・最御崎寺の山門傍に岩見重太郎の塚と言う五輪塔があるけんど、あんまり気が付いた人は少ないがじゃないですろーか・・・・・。

岩見重太郎の塚 (室戸岬・最御岬寺)

岩見重太郎(薄田隼人)の塚

生没年・・・ ~慶長二十年五月六日 (出生年月日は不詳)

豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。
秀頼には三千石で仕えている。
剣の道を極める為、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立で仇討の助っ人をした話や、信州松本の吉田村で狒々(ひひ)退治をした話などが有名。
大阪冬の陣といわれる慶長十九年十一月には、大いに戦って有名をとどろかせ、さらに翌元和元年五月の大阪夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと伝えられる。

【 参考・引用 】  説明板より


説明板にゃ「天橋立で仇討の助っ人をした」とあるけんど、以前、実際に見た事もある天橋立公園の「岩見重太郎 仇討ちの場」の碑にゃ、下記のようにある。

剣豪として名高い岩見重太郎が、父の仇として広瀬軍蔵、鳴尾権三、大川佐衛門の三人の仇討ちをしたと伝えられている場所です。
岩見重太郎は、三人を追って丹後の宮津に来ましたが、三人は重太郎を恐れて領主京極家に隠れていました。
そこで、京極家に乞うて仇討ちを許され、1632年9月20日天橋立の濃松において三人を討ち倒し、ついにその本望をとげたと伝えられています。
なお、岩見重太郎は薄田隼人と同一人とされ、豊臣家の家臣であったが、大阪冬の陣では大いに戦って名をとどろかし、夏の陣で惜しくも戦死したといわれています。
この場所には、仇討ちの試し切りにしたといわれる石が現在も残っています。

【 参考・引用 】  
岩見重太郎 仇討ちの場 | 観光スポット - 天橋立観光協会:


岩見重太郎と言う人は実在の人物で生い立ち等は不明のようじゃけんど、戦国時代の武将で小早川隆景や豊臣秀頼に仕えた薄田兼相の前身に名乗った名が岩見重太郎じゃと言われちょります。

前半生はほとんど不明。
山城国または筑後国出身とされる。
妹に堀田一継室がいる(『寛政重修諸家譜』)。

豊臣氏に仕官し、秀吉の馬廻り衆として3000石を領したとされる(後に5000石に加増)。
慶長16年(1611年)の禁裏御普請衆として名が残っている。

慶長19年(1614年)、大坂の陣に参戦。
大坂冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いでは遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯し、味方から「橙武者(橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。)」との嘲りを受けた。

大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の発生により先陣の後藤基次の到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に基次を討死させてしまう。
そこで陣頭指揮を取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、討死を遂げたといわれている。
討ち取ったのは水野勝成の家臣河村重長、本多忠政勢、伊達政宗家臣の片倉重長勢などそれぞれの家臣の説があり、はっきりしない。

墓は大阪府羽曳野市誉田7丁目に子孫にあたる浅野家の一族によって建立され、1996年以来、羽曳野市の指定有形文化財となっている。
剛勇の武将として知られ、兼相流柔術や無手流剣術においては流祖とされている。

【 参考・引用 】  岩見重太郎(薄田隼人)の塚 - Wikipedia:


その岩見重太郎(薄田隼人)の墓が如何いて此処にあるがやろーか。

上記、参考・引用した「薄田隼人」にもあるように大阪冬の陣の・博労淵の戦いで砦の守将でありながら留守にして、徳川軍に砦を落とされた事で『橙武者(無能な武将)』と酷評されより、夏の陣では橙武者の汚名をそそぐために戦って討死したとされちょりますが、実は薩摩に落ち延びたと言う説もあるがですよ・・・・・。

ですき、何の所縁もない室戸岬に意味なく墓があると言うのも解せんき、もしかしたら薩摩じゃのうて土佐の室戸に落ち延びて来たのかもしれませんねー。

真相は不明じゃけんど、これも歴史のミステリーで浪漫でもあるがですよ・・・・・。


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