清岡治之助屋敷跡 - 野根山二十三志士の副首領

清岡治之助邸跡(安田)
 
[ 高知県安芸郡安田町間下  ]


安田川沿いに県道12号安田東洋線を馬路村方面に行くと、川向こうにある大心劇場の対岸辺りに清岡治之助邸跡はあるがです。

清岡治之助は土佐勤王党に143番目に血盟加盟し、土佐勤王党の獄が始まると武市瑞山らの釈放と藩政改革訴え、野根山街道の岩佐番所に武装屯集した野根山二十三志士として知られちゅう尊王攘夷派の副首領じゃった人です。

清岡治之助邸跡(安田)

清岡治之助屋敷跡

治之助は名のりを正道と言い、桂山または曲水と号した。
文政9年(1826)1月2日大庄屋清岡大五郎の長男として生をうけている。
天保9年(1838)9月には11才で叔父清岡喜之助の家を継いで郷士職となった。

治之助は幼少の頃から学問を好み、始め宮地大仲(田野)岡本寧浦(安田)に付き漢学を修め、のち江戸へ遊学して安積良斎及び平田氏の門に入り皇学を研究した。
彼はことに平田篤胤の学を慕い、その著はほとんど読みつくし『古史徴』・『古史伝』は最も愛読の書であった。

武は剣道を土方幾蔵、柔術を小川為十郎、砲術は田所惣次から修め、文武両道に練達していた。
又藩校田野学館で文部副教頭に任ぜられ、主に国学の指導に当っていた。

文久2年6月には、朝廷の命により京都の守備に任じた藩主山内豊範公に随行し、他藩応接役武市瑞山を助けて宮方や公家に出入りし、天下の志士と交わり、ことに田野にいた清岡道之助に書を送り時勢をとき、よく時事をつくした。
この年の11月には少将姉小路公知卿、勅使三条実美卿の東上に際しては、勅使護衛の功をもっ青蓮院宮より菊花を賜った。

あるいは治之助が京都滞在のとき、同志と四条河原を通行していたところ、不意に数人の佐幕派の者どもに襲われたが、彼はとっさにこれに応じて二人を斃した。
このとき左腕に二ヶ所の刀傷を受けた。
このことを青蓮院宮が聞き兼光の短刀と金五百疋を見舞いに賜ったことなどは、彼の洛中での活躍をものがたる有名な話である。

文久3年9月武市瑞山の土佐勤王党の大獄に際し、安芸郡同志が決起した。
いわゆる野根山事件の副首領として奔走したが、事破れ元治元年9月5日、奈半利川で処刑された。
その歳、39歳であった。
治之助は事にあたって、あらかじめそのなりがたきを察し、家を出るとき「かねてなき我とは知らずたらちねの 祝う門出は野辺の送りか」と詠じた。
そし又辞世の句としては、「身は国に心は阿波にとどまりて 霊の真柱たわむべきかわ」。

明治34年特旨をもって従四位に贈位せられた。
屋敷跡には故人の遺徳をしのび、昭和8年6月、田中光顕伯の揮毫による記念碑が地元郷浦の人々により建立された。

【 参考・引用 】   説明文より


清岡治之助邸跡(安田)

傍には「安田町史跡 野根山二十三烈士 副首領 清岡治之助生家」の碑が。

清岡治之助邸跡(安田)

その背後に田中光顕の揮毫による「清岡治之助先生」と刻まれた、大きな石碑が建っちょります。


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