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西深渕城跡(立田城跡) - 長宗我部時代にゃ城主は立田甚左衛門

西深渕城跡(立田城跡)

[ 高知県南国市立田  ]


土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の立田(たてた)駅の東、約300mの所に立田神社があるけんど、その北に約200m程の場所に、写真の西深渕城跡の城八幡が鎮座しちょります。

石碑にゃ西深渕城跡となっちょりますが、『土佐国古城略史 附御城築史』にゃ西深渕城跡の名称は見当たらんがですが 、どうやら「立田城跡」の事じゃないかと思われます。

立田城跡

土佐遺語曰、立田村大将軍の社の北1町に在り。
城主、立田甚左衛門。

【 参考・引用 】  『土佐国古城略史 附御城築史』.宮地森城・著(昭和10年)


とあり、城跡が記述にある距離じゃとしたら、現在ある城八幡より南になり丁度中間辺りになるがですが、1町の距離が昔と今では違うのか、または何かの理由で城八幡の位置がズレちょるのかも知れません・・・・・。

また、城址とは関係ないけんど、現在の「立田神社」の事を、明治維新前は「立田村大将軍」と言いよったがでしょうか・・・・・。

因みに、『土佐遺語』とは、江戸時代の儒学者・谷秦山(重遠)の書き残した書物ながです。

西深渕城跡(立田城跡)

石碑にゃ、下記のようにある。

立田氏中興之祖 
長宗我部九郎右衛門日向守秦重頼居城跡

西深渕城之碑

南北朝之古戦場 
佐伯文書建武三年三月十七日軍忠状 堅田小三郎申
今月十六日押寄深渕城懸先陣焼城郭之處乗馬大腹複的到軍忠侯○云々
御奉行所佐伯經貞云々


まちごうちゅうかもしれんけんど(間違っているかも知れませんが)、意味は「今月16日に深渕城を襲い、先陣を切って城を焼き払わんとした時、乗っちょった馬の大きな御腹に複数の矢が刺さった・・・・・」と言うような事でしょうか。

碑の文章は、土佐の南北朝戦乱期の北朝方じゃった佐伯経貞(堅田小三郎)の『佐伯経貞軍忠状(佐伯文書)』の一部ながですが、建武3年(1336)3月16日、土佐北朝軍が土佐南朝軍の深渕氏の深渕城(現・のいち町)を攻撃し城を焼き払っちょりますが、その時の戦いは物部川の西河原で戦ったとあるので、この辺りが戦場じゃったがですねー。

ただ深渕城は物部川の東にあったがですき、西深渕城跡と言う出城でもあったがですろーか?。


城主立田氏は源氏の後裔と伝え、在地土豪として発展、戦国時代には立田甚左衛門が長宗我部氏に仕えた。
『深渕郷地検帳』には甚左衛門以下一族が長宗我部氏家臣として給地を与えられているのが認められる・・・・・。

【 参考・引用 】  『高知県の地名 日本歴史地名大系』 平凡社 


立田甚左衛門は長宗我部元親に仕え長宗我部氏が滅んだ後は帰農しちょります。

ただ、碑にある立田氏中興之祖とされる長宗我部九郎右衛門日向守秦重とは誰なのか、もしかしたら長宗我部元親から名前を貰って立田甚左衛門が名乗った名前なのか、併せて不明ですけんど・・・・・。

兎に角よう判りませんが、此処は土佐の南北朝の古戦場址でもあり、また長宗我部氏にも関係のある人物の居った城址ながです。


【 追記 2015.06.16 】

本記事の末に「碑にある立田氏中興之祖とされる長宗我部九郎右衛門日向守秦重とは誰なのか、もしかしたら長宗我部元親から名前を貰って立田甚左衛門が名乗った名前なのか、併せて不明ですけんど・・・・・。」と書いていたけんど、宿毛歴史館のサイトに下記のような記述があり、関連がありそうなので追記しちょきます。

長宗我部時代になると、錦の北方の新城山に立田九郎右衛門が居城したが、その出城として錦城を置いている。

【 参考・引用 】  宿毛歴史館/集落の歴史/錦:

あくまでも当方の推測じゃけんど、立田九郎右衛門は一条氏の配下じゃったけんど、一条氏が長宗我部元親に敗れた後に元親に仕えるようになり、現在の南国市の立田の此処「西深渕城跡(立田城跡)」を与えられ、更に何らかの功に対する恩賞として長宗我部の姓と日向守の官職名を授けられ「長宗我部九郎右衛門日向守秦重」と名乗る事を許されたがじゃないかと思われますが・・・・・。




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