野田千簳の歌碑 - 鹿門十哲の一人

野田千簳の歌碑

[  高知県高知市天神町  ]


潮江天満宮の楼門を潜った参道脇に、野田千簳(のだ ちから)と言う人の歌碑が建っちょります。

文字はちょっと判別しづらいけんど、傍に建てられちゅう高札に、その歌が記されちょります。

「衣手は 破れぬともよし 梅の花 しづ枝引くとも おらで行かめや」

この人は明治初期の国学者で、通称、久米、のち亘と言い、名を正前、千簳は雅名。

元は秦姓であったので、秦正前(波多正前)とも称す。

文化6年(1809)年土佐藩家老で佐川領主・深尾氏の年寄職上座を代々務める野田稲城正道の弟に生れちょりますが、始め岩神家を継ぎ、楠蔵と称したが、故あって野田に復す。

幕末の土佐の国学者・鹿持雅澄(かもち まさずみ)に入門し国学・歌文を学び、万葉集の和歌を詠み、鹿持雅澄の信頼も厚く、鹿門十哲の一人に数えられた。

鹿持雅澄生誕地・邸跡 - 妻は武市半平太の叔母  2010-04-14

佐川にあって、多くの門人を指導して明治18年(1885)77歳でみてちょります。

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年) 


岩神家を継いだ事があると記されちょりますが、岩神主一郎と関係がありそうながですが、詳しゅうは判りません。

岩神主一郎 - 土佐勤王党に134番目に加盟 2015-03-27

因みに土佐国香美郡東部(現・高知県物部村,香我美町)の荘園じゃった大忍荘の名主で、長宗我部元親に臣従し安芸城代を与えられ、秦姓と親の一字を与えられた岩神筑前守親縄と言う武将がおるがですが、長宗我部氏が滅んだ後、次男は佐川・深尾家に召抱えられちょります。

佐川の岩神氏は、その子孫になるがです。


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