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細木核太郎 - 土佐勤王党に184番目に加盟

細木核太郎墓

[ 高知県土佐市新居 ]


細木核太郎(ほそぎ もとたろう)は、天保9年に高岡郡新居郷本村(現・土佐市)の庄屋・細木繁蔵の長男に生れ、名は栄敦のち千足、通称は元三郎、元太郎と言うがです。

同時期の志士たちと同じく国事を憂い、土佐勤王党にゃ184番目に加わっちょりますが、土佐勤王党の弾圧が始まると、深尾氏の佐川領を脱藩しちょります。

長州じゃ、高杉晋作の率いる遊撃軍に加わり、馬関や三田尻門などで活躍し、慶応2年(1866)の幕府による第二次長州征伐の戦いじゃ、神機隊士とし安芸国佐伯郡宮内にて幕兵と戦こうちょります。

戊辰の役じゃ、司令士として因州軍に属する山国隊を率い下野国安塚の戦いで彰義隊と戦い、左手心に銃弾を受けて負傷しちょります。

その後、土佐藩から脱藩の罪を許され土佐藩正規軍・迅衝隊士として会津若松城攻略戦に加わるけんど、ほどなく病にかかり戦列を離れちょります。

長州では沢山の勲功をあげちょるけんど、倒幕に関わる戊辰の役での土佐藩兵としての正式な従軍は短期間じゃったためか論功行賞には無縁じゃったそうで、他の同志達のような処遇には恵まれず始終不遇じゃったそうです。

明治維新後は、新政府とは無縁で高知に住み一時期は県庁に勤務しちょりますが、明治17年(1884)故郷・新居に帰り、戸長を務めちょります。

明治37年(1904)、67歳で亡くなっちょります。

細木核太郎墓

勤王の志士 細木核太郎

新居村の庄屋の家に生れ、代々硬直な家庭に育った。
勤王の志篤く、同志中島信行、中島与一郎と計り、元治元年(1864)11月20日脱藩を決行した。
途中与一郎は足痛のため、池川水の峠で脱落し、のち自刃したが、信行と二人は捕史の追跡を逃れ、無事長州に至り高杉晋作の門に入った。
核太郎は、倒幕のため各地に転戦して勲功を立てたが、維新後は戸長(村長)などを勤め、中央の官界、政界とは無縁であった。
明治37年(1904)4月6日没、67才。
墓所は新居の吉田にある。
なお、歌人庄屋、天保庄屋同盟の指導者細木庵常(ほそぎ いおつね)は、核太郎の祖父である。

【 参考・引用 】  墓所にある土佐市の説明板より 


中島信行 - 坂本龍馬最後の帰国の際にゃ同行 2011-08-16

細木核太郎墓

核太郎の祖父・細木庵常も、この地に代々続く庄屋職を務める細木家に生まれ、文化8年(1811)に庄屋職に就任し新居村をはじめ野市・諸木・伊野などの庄屋を歴任した人で、谷真潮に南学を学んだ国学者・今村楽(いまむら たぬし)の門人でもあるがですき、彼が指導した天保庄屋同盟は土佐勤王党以前の勤王思想の始まりの一つにもなるがです。

細木核太郎も、こうした祖父からの勤王思想を受け継いだ勤王家でもあるがです。

谷垣守・真潮邸跡 - 谷家の学問が尊王思想を説く 2011-07-03

【 参考・引用 】  
『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年) 
『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会 (昭和62年)




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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