吉野の桜 - 龍馬が出藩を決意し「桜」を見に行くと言って家を出る

吉野の桜
[ 吉野川沿いに北方向を見る ]

吉野の桜
[ 吉野川沿いに南方向を見る ]

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[  高知県高知市神田吉野  ]


今回は、前回投稿の記事にも一寸関係のあるお話です。

石土神社と石鎚神社 - どちらも同じ神さんで石鎚山は蔵王権現の化身 2015-04-10

文久2年(1862)3月24日坂本龍馬は、 「吉野に花見に行く」と言って家を出て坂本家の守神・和霊神社に寄った後、そのまま出藩しちょりますが、実際に坂本龍馬が 「吉野」を経由して和霊神社に行ったか、ただの口実じゃったか否かは判らんがですが、今回はその事ではなく「吉野の桜」に付いて・・・・・。

龍馬は「花見に行く」と言ったと言う事は、当時の「吉野」は春にもなれば沢山の「ヤマザクラ」が咲いっちょった場所じゃったがじゃろうかと想像するがですが、現在は「吉野」が桜の名所じゃとか言うような事を聞いた事がないがです。

その「吉野の桜」を確認したいと思うた切っ掛けが、今年の2月か3月の事じゃたけんど偶々見た地元のTV局「 RKC高知放送」が毎週金曜日の午後15時30分から放送しゆう『こうちeye+(プラス)』と言う番組の中で「神田」地区が取り上げられちょって、その中で戦前まであった桜が吉野川沿いに一本だけ残っちゅうと言うのを見たがです。

そりゃー是非見て見たいと思い、桜の咲いた時期を見計らって、その「吉野の桜」があったであろう周辺に行っちょりました。

龍馬が「吉野」を経由したとしたら、現在の新月橋の架かる周辺の何処ぞから鏡川を南岸に渡し船で渡り、神田川を渡った南の「吉野の分れ」を左方向に南に来ると、最初の写真の吉野川沿いに出るがです。

吉野の桜
[ 「吉野」バス停 ]

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吉野川の一本西の道路門のバス停に「吉野」とある。

吉野の桜

その「吉野」バス停から南に120~130m程川沿いに来ると、写真の場所に来ます。

ほんの数メートルの川じゃけんど、TV『こうちeye+(プラス)』の中で地元の方の話じゃと「戦前、この川沿いに200~300本の桜が植えられちょった」と言うちょりました。

けんど、戦争中に松脂(まつやに)を製造するのに、桜を伐採して燃料にしたような事を言うっちょりました。

吉野の桜

上の右側の桜が、番組の中で唯一伐採されずに残った桜じゃと言うちょった。

ただ「ソメイヨシノ」ですき、龍馬の見たかもしれん桜とは違いますが、明治以降に吉野川沿いに植えられた桜の一本ながでしょうねー。

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吉野の桜

その傍に、多分個人のお宅の裏山じゃと思うけんど、ご覧のように見事な桜が数本あった。

上の方は「ヤマザクラ」かなと思うけんど、品種は判りません。

何人か桜を見よる人がおりましたき、「個人のお宅ですか?」って聞いたけんど、偶々通りかかっただけで地元じゃないき判りません」と言う事じゃったがです。

吉野の桜

少し戻って、吉野川の東にある石鎚神社参道から見ると、参道脇の菜の花の黄色とマッチして綺麗ながでした。

この眺めを見たら、もしかしたら全山はオーバーじゃけんど、もっともっと山全体にヤマザクラが分布しちょったがじゃないろーかと思うたりします・・・・・。

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因みに、桜の木は太平洋戦争中に各地で燃料にするために伐採されたそうで、例えば「オオシマザクラ」は燃料用として植樹されちょったそうで、別名を「タキギザクラ」とも言うがです。

ですき此処「吉野」でも戦争中に桜は切られ、もしかしたらそれでも不足のため、山の木と一緒にヤマザクラも切られてしまったのかしれませんねー。

ここからは今回も「吉野」の地名の由来に付いて、前回の続きを書いてみます。

前回の記事にある「具柄山(烏帽子山)」頂上の「石土大権現社」が鎮座したのがいつの時代なのか判らんし、高知県の地名辞典等にも、それらしい地名はない。

それに天正~慶長期(1573‐1615)の長宗我部氏による『長宗我部地検帳』にも該当するような「吉野」の地名は出てこんし、この地区の「石土神社」・「石鎚神社」の勧請が修験者によるものとして調べても、この地区と修験に関するような記述も見られんかった。

そうなると、残るはこの地区に住んじょった人物に因む由来じゃないかと思い、手元にある資料を順番に見開きよったら、一つそれらしい記述があったがです。

実は、この神田地区にゃ、縄文時代の遺跡が沢山あり、その発掘調査報告書があるがですが、当方が見たのはその一つの発掘調査資料じゃったがです。

・・・・・天正十六(1588)年と伝えられる、岡豊城から大高坂城への移転とそれに伴う本格的な城下町建設であった。
これは兵農分離のための家臣団の集住を目的としており、神田からは「吉野殿」と称される有力者が移住したことを『大高坂郷地検帳』(慶長4年)が伝えている。・・・・・

【 参考・引用 】
『神田ムク入道遺跡』  高知市文化財調査報告書第28集 
2005.3 高知市教育委員会


と言う訳で、長宗我部元親が土佐を平定し岡豊城から高知城(大高坂城)に拠点を移した時、長宗我部氏の有力家臣団の一人じゃないけんど、この神田地域の権力者に「吉野某」氏と言う人物がおったと言うがです。

これが、唯一「吉野」の地名の由来に該当しそうな記述じゃと思いますが・・・・・。

長宗我部氏の時代以降になって、修験者なのか地元民たちによるものかは判らんけんど、具柄山(烏帽子山)頂上に「石鎚蔵王権現(正式名称「金剛蔵王権現」)を祀り、偶々周辺にヤマザクラがいっぱいあったき、修験者や神仏を敬う人々には、「吉野」の地名と合わせてこの地区を奈良吉野の金峯山に見立てて信仰したがじゃないかと、勝手な解釈をしちょる次第ながです。

じゃき、石土神社の由来にあったように「山麓は大和國吉野と同名地で神仏の鎮座には好適地として斯道の人々の間に重視せられていた」と書き記しちょるがじゃないがでしょうかねー。

最後に、TV番組『こうちeye+(プラス)』の中で、地元の方が自身の持山に桜を植えて、昔のように「吉野の桜」をと言うちょりました・・・・・。

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